1998年初夏のある日、腰に付けているポケベルがビービーと鳴った。ポケベル画面上の一行「董さん、テレビ局国際部の高部長に電話して下さい。電話番号は○○です」が目に入った。
テレビ局で働く私の知人は、みんな国際部以外の部署にいる。国際部とは交流がなかったので、国際部の高部長とは一体どのような方かと少し訝しく思いながら、折返し電話をした。
電話に出たのは、テレビ局国際部の当の高部長本人だった。国際部は日本のTBS(東京テレビ局)と提携して『松茸の宝庫―雲南』というスペシャル番組を制作する計画があった。プロデューサーと監督は日本人であり、カメラマンと録音技師が中国側テレビ局から人選されるため、手配するのは当然国際部となる。当時の雲南省には、日本語の通訳はめったにいなかった。高部長は知人を介してあちらこちらへ照会し、やっと博物館に通訳のいることを知り、私の連絡先を手に入れた、ということらしい。私は高部長の話を聞いて、この仕事を喜んで引き受けた。
当時、中国には外国の取材班が中国で取材する場合、テレビドラマ(映画を含む)かスペシャル番組かを問わず、中国側のテレビ局と提携しなければならないというルールがあった。もしそうでないと一切の取材が禁止されていた。当時日本で視聴率の高かった大型スペシャル番組『シルクロード』も、NHK(日本放送協会)がCCTV(中国中央テレビ局)と提携した作品であった。
あっという間に1ヶ月が経ち、国際部のメンバーと一緒に空港へ日本人取材班を迎えに行った。監督兼プロデューサーの秋沢誠さんは、痩せた老人だった。日除けか禿頭を隠すためかよく分からないが、いつも野球帽を被っていた。後で分かったことだが、監督なら誰でもいつも帽子を被っているようである。それは何かを隠すというよりは、むしろ監督の身分を表すためだけであろう。秋沢さんは背丈は高くないが、声は大きかった。よくにっこりと笑い、コーヒーとタバコの脂で黒褐色になった歯を見せた。彼はいつも暗色のチェック柄のカッターシャツに鼠色のカジュアルジャケットを着て、灰色のゴルフズボンを穿き、茶色の革製のカジュアルシューズを履いていた。その姿はずっと後まであまり変わらなかった。
名刺を見て、秋沢監督の助手が北方直子という名前だと分かった。北方さんは小柄で、白い肌の40歳前後の女性だった。よく出張に出掛けるためかも知れないが、白色のブラウスに濃紺のカジュアルジャケットを着て、下は白いスリムフィットパンツを穿いていた。髪は肩に着くくらいのショートカットであり、日本人女性らしくいつも目を細めてほほ笑んでいた。北方さんは立とうが座ろうが、いつも両膝をくっ付けていた。足を広げたり、足を組んだりせず、「休め!」という立ち姿さえ見たことはなかった。
高画質の撮影をするため、秋沢監督はどこの国で取材しようが、ソニー製のプロフェショナルビデオカメラを携帯した。それは極めて高価なカメラで、プロフェショナル級であれば、何れの型番でも100万元以上の価格であり、中には300万元もする高いカメラもある。中国に入国する毎に、北京の中国ラジオ・テレビ総局へ申請して許可証を取得し、税関に提示しなければならない。当然出国する時には、税関にカメラと許可証を併せて提示し、許可証を取り消す。この手続きは北京税関でしかできないから、中国のどの省へ行くにしても、何時も北京で入国しなければならない。
昆明に到着後、一日休息した。同時に雲南テレビ局が派遣したカメラマン、録音技師、テレビ局の外事弁公室職員、ワゴン車の運転手、そしてもちろん通訳の私も含めて一堂に会し、取材場所、スケジュールを最終決定した。この機会を利用して、取材班のメンバーはお互いに親しくなった。
取材班のメンバーは、秋沢監督、助手の北方さん、通訳の私、カメラマンの趙さん、録音技師の李さん、運転手の劉さんと外事弁公室職員の陳さんから構成された。陳さんは若い女性であり、外向的で朗らかな性格であった。私達は彼女に食事注文やホテル予約等の総務全般業務と当地地方政府との折衝をお願いした。
20日前後のスケジュールで、松茸産地のシャングリラ、麗江、大理、楚雄から、昆明の潘家湾集散地と東駅の巨大冷凍庫まで、そして税関経由で輸出後に日本のスーパーマーケットへ着くまでを撮影する。これらの地点は全て『松茸の宝庫―雲南』というスペシャル番組の取材場所となる。
シャングリラで取材した時、午後から当地の迪慶州中甸県委書記斉扎拉にインタビューする予定だったが、斉書記が多忙のため順延となった。3時間ほどの空き時間ができたが、秋沢監督は取材班の中国人にホテルで待機するようにと指示した。取材班の中国人の大多数は、シャングリラは初めてであり、周辺のすべてに強い好奇心を持っていた。運転手の劉さんと私はカメラ愛好家であり、一眼レフカメラをいつも携帯していた。そこで取材班の人は私に秋沢監督に、休息をせずに納帕海(高原湖)で撮影をして観光したい、と説得するように頼んできた。
私はトントンと秋沢監督の部屋のドアをノックしたが、出掛けたのか眠っているのか分からないが、結局応答がなかった。私は「午後のインタビューまでに戻れば大丈夫だろう」と言った。運転手の劉さんも「納帕海まで10km もないので、2~3時間もあれば十分に戻れる」と言った。そこで我々は劉さんのワゴン車へうきうきとして乗り込み、歓声を上げながら納帕海へ向かった。
晩夏から初秋の頃の納帕海の水面は、鏡面のように静かであり、湖畔の草原一面に狼毒草が真っ赤に咲き、頭上には天空が広がっていた。数は多くないがチベット馬が湖畔の草原で、のんびりと草を食んでいた。湖面からの爽やかな微風が頬を撫でて、気分爽快であった。我々は写真を撮ったりして大いに楽しんだ。
我々が楽しんでいる時、劉さんが腕時計を見て焦りながら、「しまった。随分とはしゃぎ過ぎた。急いで帰ろう。時間がない」と言った。そこで我々は車に乗り、辛うじて町に帰った。遠くからホテル表門を見た時、秋沢監督は不機嫌な顔でかんかんに怒って我々を見ていた。取材班の人たちは私に視線を向けた。私は秋沢監督に「お部屋のドアをノックしましたが、ご不在でした」と言った。秋沢監督は大変怒って「仕事時間中は各人の所在を明確にし、仕事場所を離れてはいけない。皆さんは理解していますか」と言った。私の通訳を聞き、各人は一言も発せなかった。
この時、北方さんが出て来て、場を丸く収めた。彼女は私に通訳をさせて、「皆さんは勝手に職場を離れて遅く戻って来ましたが、仕事への影響は些細です。大事なのは、秋沢監督が皆さんの安全を非常に心配されていることです。彼は取材班のリーダーとして皆さんが仕事を首尾よく終えて、無事に昆明へ戻ることを願っています。理解できますね」と言った。秋沢監督は、北方さんが安全を強調するのを聞いて、「私は皆さんのことをすごく心配していました」との一言を付け加えた。我々はすぐに口々に秋沢監督と北方さんに謝り、「我々が間違っていました。今後このようなことはしません」と言った。
さすが、秋沢監督だ。先程までは不機嫌で我々をひどく驚かせたが、表情はもう穏やかになった。秋沢監督はニコニコしながら私の肩を叩いて、「皆さん直ぐに準備をして下さい。間もなく政府へ行き、斉扎拉書記へのインタビューをします」と言った。後で知ったが、我々がホテルを離れた後すぐに、斉書記の秘書がホテルにやって来て、インタビューを予定通りに行うとの連絡があった。秘書と北方さんは、紙とペンを用いてもぐもぐと言いながら、何とかして意思疎通ができたらしい。
書記へのインタビューは、極めてスムーズに終わった。その後1ヶ月間程度の各地の取材も、紆余曲折はあったが、順調に完了した。昆明に到着後、輸出前の一作業の撮影だけが残っていた。東駅の冷凍工場内倉庫で、松茸を選別包装する必要がある。冷蔵倉庫の中で生き生きと働く作業員を撮影するため、各種の撮影機材を倉庫内に持ち込んだ。倉庫は密閉したスペースのため、100トン強の新鮮な松茸から大変濃厚な匂いが発散していた。私はキノコアレルギー体質のため、長時間倉庫内にいるとショック状態になる危険があった。私が外の新鮮な空気が吸えるように、秋沢監督はやむなく撮影班に15分毎に休憩を取らせた。
取材班のすべての食事手配は、外事弁公室職員の陳さんが行った。多分、出発前にテレビ局の上司から「日本人はあっさり味を好み、唐辛子や山椒を使った辛い料理を食べられない」と念を押されたためか、何日もあまり味のしない料理ばかりだった。ある日、私は実に薄味料理に我慢できなくなり、陳さんに「今日の注文は私に任せて」と言った。私はメニューも見ずに、薄荷味スペアリブの揚げ物、ピーマンと肉の炒め物、青菜小豆菓子、ジャガイモ唐揚げ、トマトと卵の炒め物、白菜と肉団子のスープを直ぐに注文した。取材班の中国人スタッフは、一目見て全員が喜んだが、秋沢監督と北方さんは大丈夫かなと言った。私はいずれにせよ、全員が美味しく食べられないよりも半分の人が心地よく食べられる方がよいじゃないかと言った。
「いただきまーす!」と言って食べ始めた時、秋沢監督が私に「董さん、今日の料理はどなたが注文しましたか」と大声で叫びながら言った。皆さんは秋沢監督の質問の意味が分からずにぽかんとした。陳さんは怖気付いたように私を指し、「董さんが注文しました」と言った。秋沢監督はけらけらと笑って、「さすが董さんだね、すごく美味しい。ここ数日の料理の中で最高だ。これからも続いて注文してね」と言った。全員がほっとして笑い出した。
後日、私は秋沢監督に「これらの料理は全て私の好物です。特にスペアリブの揚げ物は大好物です」と言った。秋沢監督は親指を立てて、「スペアリブの揚げ物が好きな董さんはユニークだね。大変称賛するよ。私もスペアリブの揚げ物が大好きだから」と言い終えてからけらけらと笑った。
20日強の取材生活はあっという間に終わった。2ヶ月余り後、秋沢監督から一通のメールをもらった。スペシャル番組『松茸の宝庫―雲南』はTBSで放映後、予想以上に好評であった。秋沢監督はメールの中で、私の一連の働きに対して特別の謝意を表し、そしてその番組をコピーしたテープも届いた。その後、秋沢監督と北方さんはまた雲南省へ来て、植物保護に関する番組の取材をした。この時も私が通訳として参加し、取材を無事に終えた。私は秋沢監督と何でも話せる親友になった。
2001年の夏、私が日本へ行った時、東京でのタイトなスケジュールの中で半日を捻出し、銀座で秋沢監督と北方さんに会った。彼らは名もない小さな路地へ私を案内し、大変独特なジャガイモ添えのビーフステーキをご馳走してくれた。この店は非常に小さいが、味は本当によかった。秋沢監督は私に「董さんの好みを知っているので、あなたのためにこの店を探しました」と得意満面に言った。雑談中に数年前に取材した『松茸の宝庫―雲南』に関して面白い話が出た。斉扎拉書記にインタビューした時、斉書記は私に「普通語か雲南語かのどちらで話すのがよいか」ということを、秋沢監督に確認してほしいと言った。秋沢監督はちょっとためらった後、斉書記が自然に楽に話せる言葉を選んでほしいと返答した。もちろん斉書記は雲南語を用いてインタビューを受けた。東京に帰って撮影フィルムを編集する時、秋沢監督はいつもの字幕を通訳する中国人留学生を呼んだ。しかし、その留学生は斉書記の話を聞くとすぐ頭が真っ白になった。彼は北国出身のため、南の雲南語が聞き取れないと言った。秋沢監督は、また大分苦労して雲南出身の女性留学生を見つけた。彼女は雲南語がわかるが、惜しいことに日本語の基礎が弱く、通訳のレベルには達していなかった。秋沢監督は仕方なく2人の留学生を呼び、あれこれ苦労して斉書記の話を通訳して漸く字幕が完成した。
秋沢監督は銀座駅の出口で私を見つけると、大声で私に、「董さん、斉書記が雲南語で話したので、こっちはさんざんな目に遭ったよ」と言った。北方さんは足をきちんと揃えて傍に立ち、ずっとにこにこ笑っていた。後日、北方さんは私に「董さんが東京に来られると聞き、秋沢監督はとても喜んでいた。これ程喜ぶことは久しくなかったです」と言った。
私は2006年に雲南省を離れて上海で就職したが、北方さんとはずっとメールで連絡を取り合った。ある時、彼女は秋沢監督は雲南省へ行き、野生象の保護に関する番組の取材をする予定があり、その時には是非とも董さんに上海から帰ってもらい通訳をしてほしいと伝えてきた。その年の初秋のある日、意外なことに北方さんから珍しく電話があった。北方さんは、ゆっくりとした話し方で、「もう秋沢監督は雲南へ行き董さんと会うことはできなくなりました。数日前に胃癌でお亡くなりになりました」と言った。
私の携帯を握る手が硬直した。北方さんとの通話がどのように終わったか覚えていない。
2021年10月11日
雲南省石林県出身、雲南大学中国文学学科卒。独学で日本語習得、長期間旅行会社でガイド通訳として勤務。現在FIGARO上海の総務部長兼高級技術翻訳者。