原次郎さんは、中学校の普通の音楽の先生で、私が知った時には既に50代半ばだった。彼は細身で背が高く、少し猫背で、見た目には気弱そうな人だった。しかし少し早口でしゃべる、穏やかで親しみやすい人だった。楽しいことがあるたびに、子供のように大笑いした。
彼と知り合い親しくなっていくうちに、彼から真剣に中福会少年宮オーケストラとの交流について言われたことがあった。あれは1970年代末だった。彼が中学のオーケストラ部の部員を引き連れ上海を訪問し、上海中福会少年宮を参観した時、子供達の素晴らしい演奏に深く感動し、上海中福会少年宮のために何かできる事がないかと考え始めたのであった。
1980年、彼は故郷の長崎で上海中福会少年宮と日本長崎青少年音楽交流協会を組織し設立した。更に中国側の訪日資金とビザ問題を解決するため、上海中福会少年宮招聘実行委員会も立ち上げた。そして、この青少年音楽交流会を20年間、継続させてきた。
1988年に、上海中福会少年宮招聘実行委員会は再び中国側の訪日団を招待した。この時の訪日団は規模が特に大きく、中福会少年宮、保健所、幼稚園、託児所など各部門の幹部で組織された。日本側の招聘実行委員会は全訪日者の在日費用を負担した。これだけ巨額の費用の原資を、一介の中学校音楽教師にすぎなかった原次郎さんはどのようにして集めたのだろうか。
先ず、身近の教師達を動員し募金活動に参加させ、オーケストラの学生の親達をも動員し、さらに日中友好を願う社会人にも募金してもらった。委員会の人達は自ら先頭に立って募金を集めた。その他に所在中学校の生徒の親達も家の不要品を集めフリーマーケットで売って換金した。路上でアルミ缶を拾い集め、換金した人もいた。活動を始めた頃は、子供達も大人達も理解してくれず、募金の拡大に苦労した。この時、原次郎さんが先頭に立って缶拾いを始め、皆の協力を得て本物の白銀を獲得した。このことがきっかけとなって、この光り輝く「缶を拾い」活動により多くの人達が進んで参加するようになった。
原次郎さんの弟、原三郎さんは長崎で楽器店を経営しており、兄の次郎さんの影響を受け営業費の一部をいつも委員会に寄付してくれた。多くの人が参加すれば本当に勢いは盛り上がるものである。20年間、原次郎さんはこのようにもっとも簡単で、しかし最も苦労の多い、最も地道な資金調達方法で、上海青少年達を訪日音楽交流会に参加させる夢を実現させたのである。
訪日交流活動の殆どは夏休みを利用して行われた。今でも覚えているが、私が初めて通訳として団長と長崎観光博覧会に参加した時、中国側の一人の子供が演奏中に暑さのためにめまいを起こし倒れた。原次郎さんが、その場にいたおじいさん、おばあさん達と協力して応急措置を取ったので、幸いにも大事には至らなかった。そんな事があってから、熱中症を防ぐため、活動中は、彼等は子供達のためにタオルで汗を拭いてあげたり、団扇であおいで体温を下げるための苦労をした。それは忙しく大変な事だった。
演技中、特に舞踊の子供達はさらに緊張し、演目が終わる度に汗が滴り落ち、衣裳は汗でびしょびしょになったので、原次郎さんが依頼したおばあさん達が一着一着アイロンで乾かしてあげた。喉が渇いた子供達にはすぐに冷やした麦茶を飲ませるなど、おばあさん達は自分自身の汗が流れるのを全く忘れるほど忙しかった。
原次郎さんのおかげで、沢山の子供達は日本に交流に行くことができた。陸燕華さんもその中の一人である。1983年、彼女は11歳の時、中福会少年宮「小伙伴芸術団」の団員として訪日交流活動に参加した。その彼女も現在は三人の娘の母親である。彼女は、原次郎さんと彼女の日本の義理の母富工さんのことは本当に大切にしている。彼女は次のように話した。
「私と富工ママ二人は今も昔のままの関係を持っている。1983年に日本へ行った時、私はまだ小さかったので物事があまりよく分からなかったが、原先生とその同僚の先生達がとてもやさしく飾り気なく、特に私たちを可愛いがってくれて、大事にしてくれたことしか覚えていない。出演以外でもいつも私たちを連れて、あちこちへ遊びに行き、美味しいものを食べさせてくれ、自分の子供に対するのと同じように、至れり尽くせりで面倒を見てくれた。1993年、私は親戚友人訪日ビザを申請した。当時、訪日ビザ取得は非常に厳しかった。私は日本領事館からビザ申請拒否の知らせを受け取った時、すぐに富工ママに連絡した。彼女は直ぐに原先生と対策を相談し、当時、原先生と冨工ご夫婦は一人国会議員の友人を通じて日本国入国管理局にご説明をしてもらった。間もなくビザが取得でき、私は予定通り訪日でき、丸々一ヶ月長崎に滞在した。この間、日本の友人宅に順番に泊まり、毎日それぞれの友だちがあちこちを案内してくれ、行く先は変化に富んでいたので、私は日本人家庭の本当の日常生活を体験することができた。このことは私が日本文化や風土人情などを理解するのに大きな助けとなり、日本語会話のレベルも大いに向上した。2016年、私はイギリスから三人の娘を連れ、原先生、富工ママとその他の友人に会うために長崎を訪ねた。原先生夫妻と富工ママ夫妻が私と三人の娘に会った時、大変感激し喜んでくれた。私の一番上の娘がフルート演奏をした。原先生はその場で自ら専門的な指導をしてくれた。その光景を私は一生忘れることができない。幸せなことに、私の娘達は現在では彼等の三代目達と友達になっている。中日友好のリレーのバトンが第三代に受け継がれ、友好の火が継承されたのを見ることができ、私はこの上ない安心と喜びを一杯感じた。」
かつて中福会少年宮「小伙伴芸術団」の一員として招待を受け、長崎訪問音楽交流の旅に参加した子供で、現在も音楽教育事業に従事している学生が三人いる。2017年、彼等が病床に臥せっている恩人を見舞いに訪日したいと思い、私の協力を求めていたと知った私は、すぐに全面協力を表明した。私は同行できなかったので、今回の恩師を訪ねる旅のすべての手配と連絡を長崎旅行社の畢社長にお願いした。当時、原先生夫妻は長い間訪問を断っていた。しかし私と畢社長の詳しい説明を聞いて、夫妻は深く感動し、特別に彼等の訪問を承知した。
今回の旅は原先生から長年にわたり恩を受け、夢を実現できた学生達が先生の恩情に報いる旅だった。そこで私は「感恩」(恩返し)というチャットグループを立ち上げ、学生達を動員し、昔訪日した時に撮った写真と現在の写真、先生への感謝と近況を述べたショートメッセージを送ってもらい、一冊の文集と写真アルバムを作り上げた。扉には「厚徳載物」(徳に富む)と書き、そして小楷書字の感謝の詩を添えた。それを感謝の品として、学生に持参させ原次郎先生に贈呈した。この美しい思い出が永遠に原先生のもとにあることを願ったのである。学生達の話によると、その日、原先生は奥さんの助けを借りて、きちんとした正装で早くからソファーに座って待っていたそうだ。原先生は中福会少年宮訪崎当時の学生を見て、大変感激し、子供達の手をがっちり握りしめ長い間放さなかった。奥さんが側でいたずらっぽく「子供みたいなお父さん、手を緩めて下さい」と言うと、はっと気が付き、頭を下げ謝りながら言った。「すごーく嬉しく、感動してしまった!ごめんなさい。」彼等三人全員が現在は音楽教育の仕事に従事していると聞いた時、先生のほっそりした顔面には喜びと安堵と満足の笑みが浮かんでいた。三人が原先生ご夫妻とお別れを告げる時、原先生が階段の下の玄関まで送って来ようとしてくれたが、階段が多すぎたので、それは思いとどまってもらった。外に出て彼らが振り返って見ると、原先生はベランダの柵に持たれて、見送ってくださっていたのであった。その時、彼らの目には知らず知らずにもう涙が溢れていた。
原次郎先生は一生を中学校の音楽教育事業に捧げた人であった。夫人の原隆枝さんも、小学校の先生だった。夫妻には三人の息子がいた。原先生は41歳の時、直腸癌となり手術を三回行い、以後は人工肛門生活を強いられ、残った胃は三分の一だったので、毎回の食事の量も少なく、身体は比較的ひ弱だった。それにもかかわらず、原先生が中福会少年宮と縁を結んでから、日中双方の青少年音楽交流を長く継続させていくために、20年間頑なに自分の断固とした信念を支えとして、虚弱で多病の体を抱えながら、各種の困難を克服し、たゆまず努力して、心血を注ぎ、皆を引っ張り、日中民間友好交流という大事業のために全力を尽くし、心から人を感動させる美しい詩を書きあげたのであった。
2000年、原次郎先生が発起した日中青少年音楽交流会20周年記念を祝賀するために、中国側は長崎を訪問し、当地で盛大な祝賀活動を催した。活動が終わり、原次郎先生と彼の同僚達は真心をこめて私達を飛行場まで見送ってくれた。彼らが遠くの送迎デッキで日中両国の国旗を振りながら、一生懸命手を振って見送ってくれた姿を我々は飛行機の窓からずっと見ていた。この光景に多くの人が目頭を押さえた。子供達は自分の感情を抑えきれずに、声を殺して泣いていた。ああ、このたった8日間の短い日程で、長崎の友人達のおかげで連日連夜、我々は友好溢れる雰囲気に満たされ、一緒に交流し、出演し、歓声を上げ笑顔で語り合い、お互いに相手の本当の心を知ることができた。
2019年1月2日、原次郎先生は永遠に我々のもとから去って行った。享年87歳。彼の逝去は私を含む全ての中国側の人々を悲痛のどん底に陥れた。私は中福会少年宮の指導者と、かつて長崎を訪問した同級生達を代表して、先生の奥さんに心からのお悔やみと哀悼の挨拶を述べた。
原次郎先生はこの世と永遠の別れはしたが、私は彼が我々のもとを離れてしまった気がせず、彼の「日中友好の魂」がこの世に生き続け、彼の精神がなお我々を激励し、日中両国の民間友好交流のバトンを世世代代へと引き渡し続けている、と感じている。
2022年3月8日
1956年生まれ。上海外国語学院日本語専攻卒。1978年より上海宝山製鉄所にて日本語通訳を担当。1988年上海和平国際旅行社に入社、日本語ガイド、部署マネージャーなど担当。