『中日友好世世代代』、胡錦涛前国家主席はそう書き終えてゆっくりと筆をおかれた。10年ぶりの中華人民共和国国家主席の来日初日、胡錦涛前国家主席は福田康夫元首相とともに東京・日比谷松本楼にて100年前の孫文と梅屋庄吉の歴史史料をご覧になられた後、上記のように揮毫された。
私の曾祖父梅屋庄吉は長崎県生まれである。14歳で上海に渡り、大陸を転々とした後、香港で写真館を開いていた。この香港の写真館で孫文と梅屋庄吉は出会った。1895年3月のことである。梅屋庄吉はその経験の中でアジアの情勢を憂いており、「アジア人はアジア人同士手を取り合って強いアジアを作らなければならない」と思っていた。当時医師であった孫文は西欧列強の植民地化による圧政に苦しんでいた中国の民は医術では救えない、と梅屋庄吉に訴えた。2人は一晩語り合い、日中の親善、東洋の平和、人類の平等について意見が一致した。『革命』を志していた孫文に梅屋庄吉は、「君は兵を挙げよ。我は財をもって支援す」と約束した。孫文29歳、梅屋庄吉27歳であった。
孫文は広州で最初の革命を試みるが失敗。梅屋庄吉は孫文に逃亡の費用を渡した。孫文はそれを元手に日本、アメリカ、イギリスまで渡った。梅屋庄吉自身は香港からシンガポールにわたり、映画のビジネスを始めた。これが大成功し、資産をもって日本に凱旋帰国。東京・大久保百人町に撮影所と自宅を構え、日本で映画ビジネスを始めた。ドキュメンタリーフィルム、教育映画、娯楽作品など、さまざまなジャンルの映画を撮影し、上映した。「映画界の風雲児」と呼ばれ、ビジネスは大成功していった。
梅屋庄吉は実業家であったが、孫文との約束を守り、稼いだお金は革命支援に投じられた。武器を購入し、革命軍へ送る以外に革命の同志やその家族の面倒までと支援は多岐にわたった。
1915年当時、東京に亡命していた孫文は宋慶齢と結婚した。結婚披露宴は梅屋庄吉宅で行われた。この結婚に際しては、孫文には最初の妻である盧慕貞との間に子女もあり、革命の同志や宋慶齢の父親などが猛反対した。孫文は宋慶齢を心から想う気持ちを梅屋庄吉の妻トクに伝えた。トクは孫文と宋慶齢が心から愛しあっていることを知り、二人の結婚に至るまでさまざまな世話をした。家族の反対を押し切って孫文と結婚した宋慶齢は、梅屋トクを本当の姉のように慕っていた。宋慶齢から梅屋トク宛の手紙には、当時の緊迫した情勢なども書かれており、二人の信頼関係が読み取れる。
1925年、孫文が他界。梅屋庄吉は孫文の偉業を後世に伝えるため、孫文の銅像4体を制作し、ゆかりの地に贈呈した。この梅屋庄吉寄贈の銅像は広州中山大学キャンパス中央、広州黄埔軍官学校、南京孫中山記念館、マカオ孫中山記念館に現存している。
孫文と梅屋庄吉が他界した後、戦争が起こり、国交回復にも時間を要した。
日中国交正常化の後、中華人民共和国の副国家主席となっていた宋慶齢が梅屋庄吉夫妻の娘、国方千勢子夫妻を北京に招いた。その時に宋慶齢が書いた手紙にはこう記されている。
「あなた方の来訪により、当時の記憶がよみがえりました。梅屋庄吉ご夫妻と孫文、私の宝のような友情はどんなに時が経っても、どんな情勢になっても決して消し去ることはできません。」
この宋慶齢の言葉は、冒頭で紹介した胡錦涛前国家主席の揮毫、『中日友好世世代代』に繋がっていく。こうしてこの友情は100年の時を超えても日本と中国を結ぶ懸け橋となっている。
2008年以降、私はこの歴史を日中双方の若い世代の人に伝えたいと思い、さまざまな活動をしてきた。特に思い出深いのが2010年の上海万博である。
上海万博日本館で2週間、「孫文と梅屋庄吉展」を開催した。復旦大学、同済大学などの大学生、そして日本から上海に留学している学生たち、総勢40名ほどが集まり、ボランティアでこの展示会を運営してくれた。会場の整理、アナウンス、清掃まで、日中の学生が心をひとつにしてこの展示会を大成功に導いた。上海市人民対外友好協会、上海孫中山故居記念館、上海日本国総領事館、長崎県にも後援していただいた。中国各地から上海万博に訪れた中国の人々はこの展示を見学し、孫文と日本人との間にこんなに深い友情があったことに驚いている様子であった。日本と中国、今後のアジアを見据えて、両国間でビジネスや相互理解を深めて良い関係を築いていきたい、と願う学生たちがこの友情の歴史を知り、伝え、ボランティアとして活動してくれた上海万博の展示会は私にとって、一生忘れられない貴重な思い出である。その後も、2011年から2018年までの間、北京・武漢・広州・上海・香港・長崎・東京で「孫文と梅屋庄吉展」を開催した。
2011年は辛亥革命100周年の記念すべき年であった。私は孫文、黄興の子孫とともに北京の人民大会堂で開催された記念式典や孫文に縁のある南京、武漢、広州、上海で開催された交流事業に参加した。この時に各地の新聞やテレビ番組にも出演し、孫文と日本の関わりや友情について伝えた。この記念行事を通じて、孫文や黄興の子孫の方々と仲よくなった。100年の時を超えても、海を超えても、友情が続くというのは本当に素晴らしいことだ。黄興の子孫、黄偉民さんの呼びかけで、私たちは連名で1冊の本を出版した。タイトルは『民族魂』。ともにアジアの平和を志した先祖を誇りに思い、この歴史を大切にしたいという想いが溢れる本に仕上がっている。
このような多くの交流事業が評価されて、私は2012年に上海市より白玉蘭記念奨を頂き、2021年日本の外務省から外務大臣表彰を受賞した。
1929年梅屋庄吉は4体の銅像を中国に寄贈した。時を経て、2011年。辛亥革命100周年を記念して、今度は中国から梅屋庄吉の銅像を贈りたいという申し出があった。設置場所は梅屋庄吉の生まれ故郷の長崎に決めた。孫文も9回ほど長崎に立ち寄ったこともあり、銅像は孫文と梅屋庄吉夫妻の3人像となった。2014年にこの3人像は完成し、長崎市松ケ枝埠頭の近くに設置された。
また晩年、梅屋庄吉は上海に2年間ほど住んでいたこともあり、上海市から長崎県に「梅屋庄吉像を設置したい」と連絡がきた。長崎県の有志の寄付で梅屋庄吉像が制作され、上海市の閑静な住宅街にある紹興公園に設置された。このような流れの中で、2014年には第5期中日友好21世紀委員会も長崎で開催された。
孫文が生まれた中山市と梅屋庄吉が生まれた長崎市、辛亥革命が起こった湖北省と長崎県が友好関係を結んだ。この友情は現在の地方都市交流にも繋がっていった。
私が母から歴史の史料を受け継ぎ、活動を始めた2008年以降、世界は大きく変わった。とりわけ、中国の経済的な発展は目覚ましい。経済的な結びつきが大変強い日本と中国であるが、歴史認識や相互理解が深まった状態とはまだ言えないのではないだろうか。
隣国でもあり、古くから交流を続けてきたにも関わらず、残念に思うことはしばしばある。私自身、梅屋庄吉が生まれてからちょうど100年後に生まれた曾孫であり、時を超えてもなお生き生きとこの友情が、現在の両国の交流に繋がっていることを実感している。私にできることは小さいかもしれないが、孫文と梅屋庄吉が若い時に出会い、東洋の平和、人類の平等について思いをひとつにしたことを、これからのアジアを生きる若い世代の人々に語り継ぎ、交流していくことにより、希望の光輝く、新しいアジアを築いていけたら、と願っている。
2022年3月吉日
日比谷松本楼代表取締役社長。梅屋庄吉曾孫。中国宋慶齢基金会理事。2012年上海市白玉蘭紀念奨受賞。2021年日本外務大臣表彰受賞。