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はじめに バイリンガルの扉を開けてみよう

出講先の神戸外大で毎年、語劇祭が行われている。ここ十数年来、何回か劇場で観たこともあった。すべては学生諸君によって作り上げられたから若さの勢いを感じる。外国語の使い方の角度を少し変えれば、これだけ違ってくるのか、言語の新鮮さも生まれる。

例えば、目の前の情景を文章で表現するとき、二つの言語で書き下ろす。いわば母語の内容を外国語で書けるのか。書くとなると、どう書くのか、母語からの影響を受けるのか、長らく母語ではない日本語で書き続けてきた経験からすれば、それは間違いなく影響されることになる。

主語は基本的にそのほとんどの場合、前に出るという中国語は、主語なしに始まる日本語と比較すれば、わかるように文法的な印象より、自己主張の否定にも繋がっているほうが、書く人にインパクトを与えやすい。これは決して弱さと感じることなく、何かを押しまくる気がする。要するに日本的な対人関係だ。

文章には流れがある。アクティブなのか、それともネガティブなのか、日本語にしてしまうと、どうしても後者のほうに滑り込み、なんとなくずるずると引き込まれていく。最高の喜びであっても、その五分の表現で限度いっぱいになるかもしれない。中国語はアクティブで、まさしくその逆のパターンになる。

心の中から伝えたいものがあれば、日本語も中国語もいざと書くと少し躁的で、パッとしない時がある。書く意欲が強すぎるというか、逆に追い風めいたものを背に感じながら、次第に鬱的となってしまう。やっぱり、あれだね。向かい風が必要だ。言語とは、まっすぐ取りにいくものだから勢いが欠かせない。

ふっと峠を越えた感覚も生まれるという時があってか、一瞬にしてどちらの言語も表現しきれない抑圧感でさえ生じた。不思議だ。バイリンガルで文章を書く場合に限って、その多くは言語間の交差さえ消えそうになるが、もともときっと絡みあったままになっていたはずだ。実に不思議なものだ。

僕の世代と違って今の若者たちは生まれた時からインターネットやソーシャルメディアにつながっている人間だからごく自然なことだが、みんなが吐き出した言葉がネット上に自動的に集積されていく環境も存在している。検索ツールも充実し、言語の環境も飛躍的に変化されたと言ってもいいかもしれない。

逆の場合だとすれば、今の言語環境は個人と世界の結びつきとして、言い換えれば、社会を物語的に考えることの限界なんかは、ないのではないか。物語は語り手と受け手が常にリンクしているから切り離さない。「ない」と言うのは言い過ぎになるが、少なくとも従来の言語環境に比べれば、限界は越えられる。

この本は言語について考えるものだ。それと同時に僕の日常を記録したものでもある。 KfFEW/+KHzSN+cUSuG3AMlAeDC+56jOZi1Uwc9a0mGr/bC6GzuQGSXh5LDMyEvW5

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