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2.5 「非意図的他動詞文」における日中両語の対照

2.5.1 先行研究

事態変化の結果が動作主の意図に反したり,あるいは意図しなかったりするものであるという文法現象を取り上げた日中語対照研究はまだ見当たっていないが,日英対照研究の立場から意図しない結果を表す他動詞文に関する日英語の相違を論じたものに西村(1998)がある。

次の(37)~(39)に相当するような他動詞的構文の用法は英語にはあまり見られず,(38)と(39)と同様な事態は英語で表現されるとなると,直訳的に対応する他動詞的構文の使用はもはやほぼ完全に不可能になると論じている。

(37)陽子は風で帽子を飛ばした/飛ばしてしまった。

(38)恵子は昨年の震災で母の形見の着物を焼いてしまった。

(39)戦争/交通事故で息子を死なせた/死なせてしまった父親/母親

(西村 1998:175)

(37)~(39)はいずれも意図しない結果を表しており,それぞれの表現には 「主語の不注意を責めるという意味合いが強く感じられる」と西村が指摘しているが,何故日英語ではこのような形式的な相違を生じたのかは詳しく論じられていない。

一方,中国語では意図しない結果を前景化し表現する場合,“把”構文を用いるのだが,“把”構文の述部には一般的に 「行為+結果」というスキーマによって構成される複合動詞(“VC”構造)が現れるのである。“VC”構造を論じた先行研究は数多くあるが,意図しない結果に言及したのが王红旗(1993)と马真·陆俭明(1997)である。

王红旗(1993:21)は結果補語になる成分の意味的な制限を論じたものであるが,論考の最後で語用論的観点から “洗脏”のような “VC”構造を取り上げ,意外性を表しているところから “超常补语”(「常識外補語」)と名づけ,現実世界における事態関係の言語的現われであると論じている。

马真·陆俭明(1997:8)は形容詞が結果補語になる場合のさまざまな状況を取り上げ,“VC”構造の意味的,文法的特徴を詳しく考察したものである。その中で形容詞からなる “VC”構造は次に挙げる4つの意味を表しうると指摘している。

(ⅰ)予想通りの結果の実現:洗干净了(洗ってきれいになった。)

(ⅱ)望ましくない結果の出現:洗破了(洗った結果,破れた。)

(ⅲ)自然的結果の出現:长高了(身長が伸びた。)

(ⅳ)予想している結果のはずれ:挖浅了(掘ったが,(出来た穴が)浅かった。)

(ⅱ)(ⅳ)はいずれも本論で取り上げている 「意図しない結果」であるといえる。

王红旗(1993)と马真·陆俭明(1997)は “VC”構造の意味的な振る舞いを詳しく論じたが,意図しない結果を表す “VC”構造はどのような動機付けに基づいて成り立っているのか,またどのようなメカニズムに基づいて 「意図する結果」を表す典型的な“VC”構造から拡張されているのか,などについては論じられていない。

马真·陆俭明(1997)では 「意図しない結果」を 「望ましくない結果の出現」と 「予想している結果のはずれ」という二つのタイプに分かれているが,いずれも動作主にとって望んでいない,好ましくない結果を表しているため,本論ではこれらを一括して「非意図的事象の結果」と呼ぶことにする。なお,本論で取り上げる 「非意図的他動詞文」は次のような例が示す場合である。

(40)太郎は転んで前歯を折った。

(41)花子は風で帽子を飛ばしてしまった。

(42)小王不小心把衣服洗脏了。(王さんが服を洗ったが,不注意でかえって汚してしまった。)

(43)小王没注意把坑挖浅了。(王さんが穴を掘ったが,不注意で目標より浅かった。)

2.5.2 「非意図的他動詞文」における拡張の仕方

2.5.2.1 日本語の場合

日本語の 「非意図的他動詞文」のパターンは前掲例で示すと次の(44b,c)のようなものである。

(44)a.太郎が庭の落ち葉を焼いた。

b.太郎が不注意から家の倉庫を焼いた。

c.太郎が空襲で家財道具を焼いた。

それぞれの構文の表している事態は認知モデルによって次のように示す。

図 5 典型的他動詞文(44a)の認知モデル

図 6(44b)の表している事態認知モデル

図 7(44c)の表している事態認知モデル

このように,「非意図的事象変化」を表す(44b)と(44c)の類型では(44a)をプロトタイプ事例とする拡張が行われている。(44b)において太郎の不本意の行為によって引き起こされた変化を表しているため,図 5の認知モデルの一部分が継承され,両者は部分·全体関係に基づくメトニミー的拡張によって特徴づけられる。さらに(44c)になると,太郎が自分の所有物に生じた変化を受け止めざるを得ないことを表しているため,図 6からの拡張もその一部分のみを継承するメトニミー的なものであるといえる。

このように,日本語では 「非意図的事象」を表す他動詞文と典型的他動詞文との間には 「人は自ら意図的に行った行為の直接の結果に対して,その結果自体を意図したか否かに係わらず,何らかの責任を問われる」(西村 1998:163 参照)という <責任> のスキーマによって関連付けられていると思われる。

2.5.2.2 中国語の場合

中国語の 「非意図的他動詞文」のパターンは前掲例で示すと次の(45b,c)のようなものである。

(45)a.小王把衣裳晾干了。(马希文 1987:428)

(王さんが日に当てて服を乾かした。)

b.小王把地址写反了。(张黎 2005:79)

(王さんが住所を反対に書き間違えた。)

c.小王把鞋洗湿了。(马希文 1987:429)

(王さんが服を洗った結果,靴が濡れた。)

それぞれの構文の表している事態は認知モデルによって次のように示す。

図 8 典型的“把”構文(45a)の認知モデル

図 9(45b)の表している事態認知モデル

図 10(45c)の表している事態認知モデル

(45a)では 「服」に生じた変化は意図性をもった動作主の働きかけによって引き起こされている。このような因果連鎖は,“VC”構造を用いる “把”構文によって表現されている。

一方,(45b)では 「宛先と差出先が反対になった」という望ましくない結果は意図しない偶発的な事象変化であるといえる。非意図的な事象変化の発生という事態の記述にも,意図的な行為を含意する “把”構文という形式が用いられることから,典型例と同様に <因果関係> という捉え方が適用されていると考えられる。

(45c)では “鞋湿了”という事象変化は 「服を洗う」という行為の結果的可能性から,まったく予測のつかない結果である。それにもかかわらず,“把”構文によって表せるのは 「洗濯」という行為が起因となって,「靴が濡れた」という結果が生じた,という因果関係として捉えられるからである。

中国語では 「非意図的事象」を表す “把”構文と典型的な“把”構文との間には何らかの行為が起因となって,事象変化が引き起こされるという <因果性> のスキーマによって関連付けられていると思われる。

2.5.3 日中両語における 「非意図的事象」を表す形式の対応様相

2.5.3.1 日本語の 「非意図的事象」に対応する中国語の表現形式

(46)a. …そして赤く塗った女の短いスキイは一本しかなかった。おそらく女は 過って片足のスキイを谷に流し てしまい, 吹雪のなかから脱出することが出来なくなったのだ。(石川達三「青春の蹉跌」)

b.…而女的着红色的短雪撬却只有一支。也许 另一支雪 撬在跌倒时滑进峡谷里了, 她再也拔不出腿来,就死在这场暴风雪里。(「青春的蹉跌」)

(46a)が表す事態とは,「片足のスキイ」が意図的に谷に流されたわけではなく,「女の過ち」によって流されてしまったということである。(46b)の中訳では 「スキイ」を主語とする 「受動者主語文」が用いられている。

日本語では非意図的な事態の発生を意図的な行為が規定される他動詞文構造を用いて表現することによって,主語名詞句がこのような不測の事態の生起に 「責任」を持つと捉えられている。一方,中国語では,主語の 「能動性」が反映されない 「受動者主語文」を用いることによって,動作主体が非意図的な事態の生起に「責任」を問われず,このような事態は防ぎようのない状況として捉えられている。

(47)a. その週の半ばに 僕は手のひらをガラスの先で深く切 ってしまった。 レコード棚のガラスの仕切りが割れていることに気がつかなかったのだ。(村上春樹「ノルウェイの森」)

b.这周刚过一半, 手心被玻璃片划了一道很深的口子。 其实唱片架上的一块玻璃档格早已经打裂,而我没注意到。(「挪威的森林」)

(47a)では,「僕」は自ら 「手のひら」を切ってしまったわけではなく,割れているガラスの先に切られてしまったという事態を表している。日本語では事態の直接的な引き起こし手は 「ガラスの先で」という形で明示され,文の形式としては相変わらず他動詞文構造によって表されうるのであるが,中国語では(47b)に示されているように,受動マーカーの “被”を伴う 「受動文」によって表されている。日本語では形式的に能動的な他動詞構文であるが,「受身」相当の意味を持っていると考えられる。

(48)a. 僕は宮地さんが火事の焔で背中を焼いたのだろうと 思ったが, 話を聞くとそうではない。(井伏鱒二「黒い雨」)

b. 我原以为宫地先生是被火焰烧伤了背部, 可是一打听,却不是那么回事。(「黒雨」)

(48a)では,宮地さんが自分で自分の背中を焼いたわけではなく,「火事の焔」によって 「背中が焼けた」という結果状態を表しているのである。このような事態変化を表すには中国語は(47)と同様に 「火事の焔」を仕手とする 「受動文」が用いられる。

では,中国語では(47a)(48a)に直訳的に対応する 「一般能動文」の使用は何故難しいのだろうか。つまり同じ事態に対して,行為者の使役行為として捉えられる日本語と異なって,受身という解釈を適用しているのは何故だろうか。

日本語では主語名詞句が問題の事態の生起を(ガラスの割れを見つけて修理するとか,火事の焔を避けたり早く消したりするなどして)未然に防ぐことが可能な立場にあったのに,自分の不注意が(間接的ではあるが)原因となって,自分の体の一部が損傷するという事態を招いてしまったのである。このため,主語名詞句が事態の生起に自ら責任を持つものと捉えられている。

一方,中国語ではこのような事態の発生は現実的には本人には未然に防ぎようのなかった状況として認識され,自分の責任が問われない 「受身」解釈を適用している。日本語ではより相応しいと思われる 「受身」解釈ではなく,「行為者の使役行為」解釈を適用してしまうということは,事態をもたらした原因や責任を明示する必要があると考えられているためであり,「N-がN-をV-する」という他動詞文の構造はそうした責任意識を反映する文法形式であるといえよう。このように,日中両語では同じ事態に対して異なった捉え方が取られ,意味上対立する表現形式が用いられている。

2.5.3.2 中国語の 「非意図的事象」に対応する日本語の表現形式

(49)a.象打毛线, 打坏 了,拆了从头打,换一个针法,就完全是一件新衣服…。(戴厚英「人啊,人」)

b.編み物だって, 編みちがったら, ほどいて初めからやり直すでしょ。(「ああ,人間よ」)

c.她把毛线打坏了。

(50)a.于大夫微微有点吃惊:“为什么?挂在那儿不是很好吗?你怕 挂坏 了?… 挂旧 了就挂旧了吧,…。(刘心武「钟鼓楼」)

b.妻がびっくりしたように,「あら,なぜなの?いまのままでいいんじゃないですか? 汚れる といけないから?… 古くなって もいいんじゃない?(「鐘鼓楼」)

c.她把画儿挂坏了/挂旧了。

(49)と(50)のa文はそれぞれ文中の “VC”構造(下線を引いている)を用いて,(49c)(50c)のように “把”構文に置き換えられ,「非意図的事象」を顕在的に表すことができる。「編み物を編みちがった」ということはいい編み物に仕上げたいという目的の達成を意図して行われた行為(“打毛线”)に対する不如意の結果であり,絵を掛けたらその絵が汚れた(あるいは古くなった)というのも予期せぬ結果である。いずれも動作主にとって 「非意図的な結果」を示しているが,このような意図しない事態の出現は原因事象の “打”や “挂”という行為によって引き起こされたものであり,事態間に含まれる因果性は “VC”構造によって表現されている。

前述したように,対象物の結果的状態変化を含意する日本語の変化他動詞は動詞の意味から自然に推測される結果の事態を表わしており,行為と結果との間がより緊密度の高い連鎖によって特徴づけられている。一方の中国語では(49c)(50c)のように,意図する結果と正反対の事態の出現までが “VC”構造によって表されうるため,行為と結果の関係がより緩やかな連鎖として捉えられており,その事態間の推移には,常識的な結果であれ,非常識的な結果であれ,始終何らかの因果性によって貫かれているものと考えられる。

このような事象構造の反映として,(49b)の日本語の訳文では行為と不測の結果がそれぞれ独立した二つの事態として捉えられ,形式的には複合動詞「編みちがう」を用いて対応しているが,(50b)では “挂坏”“挂旧”に含まれる因果性がむしろ日本語では一語的には表わされきれず,「汚れる」「古くなる」のように,「行為—結果」連鎖の行為(原因)事象が言語化されず,非意図的な結果状態の事象だけが言語化されているのである。

(51)a.这地界,甭看。车喧马叫的, 学脏 了鸟儿的口。(陈建功「辘轳把胡同 9 号」)

b.見るなら帰ってからにしてくださいな。車馬の騒々しい所では鳥の声が 汚くなってしまいます から。(「轆轤把胡同九号」)

c.车喧马叫的,容易把鸟儿的口学脏。

車馬の騒々しい音をまねしてしまったら,鳥の声が汚くなってしまうという因果性が “学脏”によって表現されている。日本語の訳文ではこのような因果関係が忠実に反映されず,「鳥の声が汚くなってしまう」のように,原因事象の “学”が言語化されようがなく,“脏”という結果事象だけが言語化されている。

(52)a.她还跟我讲了不少故事。有的故事,讲得真好, 硬是 把我讲哭了! (鲁彦周「天云山传奇」)

b. あの人は時間があると家へ来てくれて,私にいろんな話をしてくれたわ。あまりいい話なので, 私聞い てて泣いてしまったくらい。 (「天雲山伝奇」)

(52a)では 「あの人は私にいろんな話をしてくれた」のは「私」にそのような話を聞くことによって人生のありかたを少しでも分かってほしいという期待があるからであって,「私」が泣いてしまったという結果は当然意図されたものではない。このような事態の記述に “VC”構造を用いる “把”構文が使われうるのに対して,日本語では(52b)に示されているように,「私」を主語に,「あの人の話を聞く」ことを原因節とする自動詞構文によって対応している。事態の因果関係は一つの単一的事象構造を表す語彙的形式ではなく,原因·理由節でつながれた複文という形式によって表されるのである。このように,行為と結果との関係の緊密度が緩やかである中国語に対して,日本語の訳文では独立した二つの事態として捉えられ,複文形式によって両者の因果関係が表されている。

以上みてきたように,中国語の 「非意図的事象」に含意されている緩やかな因果関係に対して,日本語では対応する単純の述語動詞が存在せず,複合動詞あるいは結果事象だけが言語化される語彙的形式,もしくは複文という形式によって表現しなければならない。 8MHBP+NH0TG2XnjRFQnJjgYr2Zxeb1rqFc14joKYNoIg/6k/kqZYVgtt6PafzVll

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