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1.1 选题价值及意义

1.1.1 为什么要研究《三国演义》日译本

《三国演义》是我国古代小说的代表性作品,具有厚重的民族文化积淀,有很高的文学价值和文化价值。在日本,以三国为题材的文学作品统称“三国志”,《三国演义》也被称为《三国志演义》,三国故事在日本民间广为人知。在 19 世纪末,在大阪庶民区仍有许多说书场常年讲说三国故事等。 《三国演义》的第一个日文译本,是湖南文山译《演义三国志》,对日本人影响极大。日本著名诗人土井晚翠以“星落秋风五丈原”为题材,创作了长篇叙事诗《星落秋风五丈原》,咏叹了诸葛亮的悲美形象。在现代日本,书店有大量的有关三国的书在出售。

国内学者对日本学者翻译《三国演义》的介绍较多,如林煌天主编的《中国翻译词典》 收录了“《三国演义》在日本”这一词条,但把作者、书名、出版社都搞错了。再如马祖毅、任荣珍的《汉籍外译史》 一书中有下列内容:“《三国志》有日文本和英文本两种。日文本是今鹰真教授与甘波津子合译的,由筑摩书房刊行。”把“井波律子”误作“甘波津子”。反观日本学者,对《三国演义》的翻译研究取得了很多成果,内容涉及中日文化交流史,中国文学对日本近世文学的影响,《三国志演义》第一个日译本在日本的流传和影响,版本研究,人物形象研究,编撰研究文献目录及应用研究等。尽管《三国演义》日译本达 30 余种,遗憾的是国内日语界对《三国演义》日译本翻译进行探讨的成果不多见。

通过对《三国演义》日译文本的研究,可解析日本人是如何翻译和接受中国文化的,他们是以什么样的翻译态度去对待《三国演义》的,进而可探寻中日文化交流的印迹。在多元文化语境下,可推动《三国演义》的国际化学术交流,为中国古典作品翻译成现代日语提供理论上的借鉴。

1.1.2 四种日译本体例介绍

1.小川环树译本完译『三国志』介绍

小川环树汉学背景:

小川环树(1910 ~ 1993),毕业于京都帝大文学部,1934 ~ 1936 年留学中国。回国后任东北帝国大学讲师,1947 年任教授。1950 年返母校任教,1951 年获文学博士学位,就职于京都大学人文科学研究所主任教授至 1974 年退休。1989 年入选日本学士院会员。他是日本汉学大家,出身汉学书香门第,上世纪 30 年代在中国留学两年,并在北京大学听过当时国学大师们的讲座,打下了坚实的汉学功底。他本人在少年时代极爱中国典籍,阅读了『通俗三国志』、『水滸伝』、『西遊記』等译作。在大学期间,阅读中国典籍的兴趣更是不减。受家庭环境的熏陶及自己的刻苦钻研和当时的汉学名家的指导,培养了他丰厚的汉学素养和严谨的学术态度,这为他今后翻译《三国演义》打下了坚实的基础。

完译『三国志』体例简介:

译者着手《三国演义》的翻译始于 1948 年。花了 24 年的时间于1973 年结束全部,共 10 册(称旧版),后改为 8 册(称新版),由岩波书店刊行。其中第 6 册以后,与金田纯一郎合译。 10 册本中最早的第一册于1953 年出版发行,至1973 年4 月出第10 册,此为第一版。1988年改为新版,对旧版做了些修改。他自己说明了理由如下:

「旧版の翻訳に私が取り掛かったには昭和 23 年であったが、私の遅筆のため,途中から金田君の助力を受けたのに、完成までには20数年を費やした。そのあいだに訳文の文体にも変化はあり、用字法は初めからまちまちであった。そして誤訳や注を正し、部分的な改訳増補を加え、さらに用字法をなるべく統一し、仮名を漢字に書き換えるなどして、いささか面目を改めた新版を世に送ることになったのである。新版の各冊初めに加えた人名表と地図は、いずれも金田君の作製にかかるものである。」

译文: 我于 1948 年着手翻译旧版 由于迟缓 中间得到了金田君 的帮助 直至全部译完共耗时 20 多年 在此过程中译文的文体也发生 了变化 从开始时用字法各不相同 而且修改了误译和部分注释 并进 行了改译及增补了部分翻译 进一步统一了用字法 把假名换成了汉 作了些许改动终于推出新版面世 在新版的各册中加入了人名表和 地图 均由金田君制作

①每一册有目录,包括回目翻译、主要登场人物介绍、插图及地图。其中旧版第一册卷末有「はしがき」(新版没有),并附有解说。旧版最后一册有三国年代对照表,新版没有。

②每册均有插图,均由葛饰戴斗画,来源于京都大学文学部所藏『絵本通俗三国志』。

③注释分为卷末注和随文注。卷末注以[]括起,注明译注。随文注以[]注明。主要是对人名、地名、职官、典故等加注。

④旧版第 10 册最后有「あとがき」,附有主要人物索引和凡例。

2.立间祥介译本『三国志』介绍

立间详介汉学背景:

昭和三年(1928)生于东京。毕业于善邻外事专科学校。曾任东京都立大学、一桥大学讲师。是中国文学研究专家,现为庆应义塾大学名誉教授。曾参加竹内好组织的新中国文学研究活动。译介了大量中国古典白话小说和近代文学。1982 年NHK的木偶剧『三国志』就是他翻译的。他是日本《三国志》研究的大家之一。撰写了大量有关孔明的评论和传记。其著作等身,共有著书 10 部,编著 8 部,翻译作品 19部。也是日本研究中国《孙子》的专家,其首部著作是《孙子——乱世英雄》(东京新人物往来社,1974 年版),被纳入“现代人的中国思想丛书”。汉学功底深厚。

『三国志』体例简介:

我们以昭和 37 年(1962 年)平凡社初版为考察对象。该译本正式名称为《三国志》,分为上下卷。

①上下卷均有目次,目次中有回目翻译。基本上每一回中都有插图。平凡社 1958 年版名称为《三国志演义》,1965 年列入《中国古典文学大系》丛书。1962 年平凡社以“平凡社完译四大奇书”出版发行,上下册。

②下卷末有解说,指出了翻译底本为作家出版社 1955 年版毛宗岗本及选择该版的原因。在翻译时参考了小川版。译本后附有《三国年代对照表》、《三国前后历代略系》和《三国志地图》。

③译者在翻译时,添加了大量的注释。分为回后注和随文注,随文注以“()”号形式表明,而回后注则用“注一、注二”等。未标明是原注还是译注。注释对象主要是历史典故、成语、文化词汇、职官、人名、地名。对于人名、地名、职官名均直接用汉语表记,再注假名,同时视具体情况分别采用随文注和回目后注。

3.村上知行译本『完訳三国志』介绍

村上知行汉学背景:

村上知行(1899 年~ 1976 年),福冈县博多人。自学汉语,28 岁时到上海(1927 年),1934 年移居到北京。主要翻译作品有『完訳西遊記』、全訳『水滸伝』、『金瓶梅』、『北京歳時記』、『北平—名勝ご風俗』等。是中国文学的评论家和翻译家。在刊物「新中国」「読売新聞」等上发表了有关中国的大量评论,1946 年前一直居住在中国。

『完訳三国志』体例简介:

我们以现代教养文库本 1980 年初版为考察对象。名称为『完訳三国志』,共分为五卷:『龍戦虎争の巻』、『孔明出陣の巻』、『天下三分の巻』、『南蛮討伐の巻』和『秋風五丈原の巻』。

①每一卷有目次,有回目翻译,有主要人物介绍。每一回中均有插图,第一卷末附有《三国志关系地图》。

②该译本仅有少量的注,分为文内注和回后注。文内注以“()”标明,回后注以“注一、注二”等置于回后的适当位置。注释对象主要是历史典故、成语、文化词汇、职官、人名、地名。对于人名、地名、职官名均直接用汉语表记,都采用随文注形式。

4.井波律子译本『三国志演義』介绍

井波律子汉学背景:

井波律子,昭和 41 年 3 月,京都大学文学部文学科中国语学中国文学专业毕业。平成 2 年 6 月,金沢大学教养部教授。平成 7 年 4 月,国际日本文化センター教授。专业领域:中国文学/中国古典小说。她撰写了大量有关中国古典作品的著作和论文,是日本著名的中国古典文学研究专家。

『三国志演義』体例简介:

其《三国演义》全译本,名称为『三国志演義』,于 2002 ~ 2003年,由岩波书店以文库本的形式出版,共 7 册。其体例如下:

①每一册有回目翻译、登场人物简介(有两点说明,一、人物简介以《三国志演义》的介绍为准;二、人物的事迹以本书记载的时间为主),为便于读者理解,还配有三国时期的地图,共 17 幅;

②第一册后有解说,详细介绍、说明了《三国演义》的相关情况,日译本依据的底本等,翻译时研读了湖南文山译本并参考了小川译本;③第二册到第七册,每册最后有译者推荐的、认为值得一读的精彩之处;

④配有《三国志演义》年表,配有插图,是根据京都大学人文科学研究所所藏、[四大奇书第一种](19 卷,明罗本撰、清毛宗岗评、江南省城敦化堂刊本同志堂藏板所附插图),附上较多的图表有助于读者对译文的理解;

⑤日译本注释主要采取随文注和段后注,随文注以()形式注明。

1.1.3 四位译者的翻译态度

我们以第二回开头一段的翻译为例,来具体说明四个版本的翻译主张。

汉语原文: 且说董卓字仲颖 陕西临洮人也 官拜河东太守 自来 骄傲 当日怠慢了刘备 张飞性发 便欲杀之 玄德与关公急止之曰 :“ 他是朝廷命官 岂可擅杀 ?” 飞曰 :“ 若不杀这厮 反要在他部下听 其实不甘 二兄要便住在此 我自投别处去也 !” 玄德曰 :“ 我三 人义同生死 岂可相离 不若投别处去便了 。” 飞曰 :“ 若如此 稍解 吾恨 。”( 2 P11)

小川译:さても董卓(とうたく)のあざなは仲頴(ちゅうえい)、隴西臨洮(ろうせいりんとう)の人、官は河東郡(かとう)の太守であったが、もとから傲慢な男であった。この日も玄徳を侮ったので、張飛が腹を立て殺そうとしたのである。玄徳と関羽とが急いでこれをとめて 「かれは朝廷の高官じゃ、自ままに殺すことはならぬぞ」。張飛「こいつめを打ち殺しもせず、あべこべに部下になってこき使われるとは、我慢がなるものか。兄貴たちがここに居ようというのなら、おれはほかへ行くまでだ」。玄徳「われら三人、生死を同じくすると誓った上は、何として離れ離れになることができようぞ。ならば一緒に、よそへいこう」。張飛「そういうことなら、おれの腹も少しはおさまるわけだ」。

立間译:さて董卓(とうたく)は字を仲頴(ちゅうえい)といい、隴西(ろうせい)郡臨洮(りんとう)県の人、官は河東郡(かとう)郡の太守をつとめ、もともと傲慢な男であった。この日も玄徳を踏みつけにしたので、張飛が激昂して殺そうとした。ところを玄徳が関公とともに急いで引きとめて、「彼は上(かみ)に仕える役人だ、やたらなことはするでない」「あんな野郎を生かしておいて、こっちがあいつの下で働かなければならねいなんて、そんなことおれにできるもんか。兄貴たちがここにいたいなら、おれはおれで勝手に出て行くまでよ」「われら三人は義を誓った仲ではないか。離れたりはできぬ。それなら、いっそのこといっしょにここを去ろう」「そうとあれば、おれの腹の虫もいくらかおさまる」

村上译:董卓(とうたく)は字を仲頴(ちゅうえい)という。隴西(ろうせい)臨洮(りんとう)県の産で、河東(かとう)の太守。傲慢極まる人物である。その日、劉備を冷やかに扱い、張飛の怒りを買って、殺す、刺す、という騒ぎ。劉備と関羽とが 「董卓はお上の役人だ。勝手に殺せない」と張飛を止めた。「じゃあ」と張飛が「アン畜生の命令に服従か。いやなこった。お二人がここに残るといいなりゃあ、おれ、ほかに行くだけだ」劉備はそこで 「三人が義兄弟の生死を共にする中で、離れるというのは困る。行くなら三人一緒」という。結局「だったら、そういうことでがまんするか!」と張飛も納得したのである。

井波译:董卓(とうたく)は字を仲頴(ちゅうえい)といい、隴西(ろうせい)郡臨洮(りんとう)県の出身、河東(かとう)太守の任についていたが、生来、傲慢な人間だった。この日も、劉備をおろそかに扱ったため、張飛が怒り心頭に発して殺そうとしたのである。劉備と関公は慌てて制止した。「あいつは朝廷の高官だ。勝手に殺してはならぬ」。「やつを殺さず、手下になってヘイヘイいうことを聞くなど、とてもがまんできない。」「兄貴たちがここに止まるなら、わしはどこか別のところに行くまでだ」と張飛。「われら三人、生死をともにすると誓った仲ではないか。どうして離れ離れになれようぞ。一緒に別のところに行ったほうがましだ」と劉備。「そういうことなら、わしの腹立ちもすこしはおさまるというもんだ」と張飛。

首先,四位的译文均是「縦書き」排列。对于人名、地名都是直接用汉字表记,然后给它们注上假名。其次,小川、立间、井波的回目翻译,模仿中国章回小说叙事结构,讲究字字对应,用对仗句。每回的开头和结尾,三位译者几乎都套用中国章回体小说的方式,以“却说”(さて或さても)开头,用“欲知后事如何,且听下回分解”(それで次回、まずは次回の分解(ときあかし)をお聞きください、それは次回をお聞きください)收尾。这大概是受 18 世纪~ 19 世纪中国白话小说的影响之故。中国传统章回小说回目与回尾的叙事结构是密切相关的。尤其是回尾,虽是千篇一律的套话,却对小说的情节结构有相当的约束力,要求每回的故事要在情节发展的紧要处戛然而止,设置悬念,吸引读者继续阅读的兴趣。三位译者用的是直译方法,尽量传译原文的形式和内容,忠实原文。下面我们来具体分析一下四位译者译文的特色,体会译文的语言差异、语感、文体及用词的不同。

小川译:用了「さても」、「自まま」这种在日本一般都不太使用的词汇,给人感觉是在讲评书故事,有评书的味道,属于学者型译文。试图将中国白话演义小说的叙事风格原封不动地移植到译文中来,对日语读者而言稍稍有些生硬,不像日语的「落語」滑稽有趣,反倒显得有些庄重和严肃。这反映了译者的翻译态度:即尊重原著,尽可能模仿原文的文体和评书语调,旨在传译原文的风格和形式,忠实于原文。因为《三国演义》本身就是通俗演义小说,语气带有评书味,并且自宋代以来就产生了专门用于说三国故事的评书形式“说三分”,《三国演义》中的不少故事情节都被用于“说三分”这种体裁形式。对此,译者是很熟悉的,也作了相当的研究。 当然这种话语方式于日本读者,特别是现代读者而言,突显古雅,阅读该文本时感觉不是那么轻松和爽快。但正因为带有评书语气,要求阅读时要发出声音,如能像这样阅读的话,也许就会感觉不同的。这正体现了吉川幸次郎所言「七世紀人の言語と思考、また言語表現の方法と思考」的方式, 尊重原著和作者意味着使自己与所研究的那个时代的语言、那个时代的人、那个时代的话语方式接轨,并深入那个时代中去,努力营造一种「漢なら漢、魏晋なら魏晋、唐なら唐,元なら元」 的语言氛围。这体现了翻译的共时性变化。让人意味深长的是,中国翻译家丰子恺先生翻译日本文学名著《原氏物语》时,用「説話」这种评书讲故事的话语叙述方式置换日语的「さて」,将《源氏物语》完全翻译成中国的章回体小说,体现了丰子恺先生通过母语来吸取异文化的翻译意识。小川先生用典雅词来传译《三国演义》文学作品,他有自己的看法:

「中国の古典語と近代語(現代語)とのへだたりは、はなはだ大きい。前者が文言、後者が白話であるが、文言文は簡潔を特色とするのに対して、白話文では委曲を尽くすことができる、というのが常識になっている。文言文では事柄の核心だけを指摘し、白話では事の中心を取り巻く種々の附帯的なものを合わせ示す、ということもできよう。」

译文: 中国的古代汉语与现代汉语之间有巨大的差异 前者为文 后者为白话 文言文简洁 而白话文则详尽 此为常识 文言文指 出事件的核心 白话文则围绕事件的中心并对此加以展开

《三国演义》的来往书简,基本上是原封不动地照抄晋代陈寿(233~297)《三国志》,其语言属于上古中后期汉语。为了达到传译原语文体和风格的目的,他使用了日本古典的文体“侯文”与之相对应。对此,他是这样说的:

「書簡の訳文は全て候文にした。文山は書簡の場合に原文をそのまま掲げ返り点を付け訓読するだけですませてある。原文は完全な文語体(文言文)であって、作者の地の文あるいは対話の部分が (文言は相当にまざっていても)口語体(白話)を主としているのとまったく違った調子で書かれている。これを区別して訳しわけるためであった。それは私にとっては一つの実験にすぎなかったのだが、一度はじめると最後まで持ちつづけざるをえないこととなった。」

译文: 书信的译文 我全部用侯文体 湖南文山在翻译时用的是训 读法 将原文加上返点 原封不动地加以移植 原文完全是文语体 文言文 )。 作者叙述部分或对话部分 混杂有不少文言文 主要以口 语体 白话 为主 我则用完全不同的调子 是为了以示区别而这样 翻译的 这对我来讲 虽然只不过是个尝试 一旦开始 就不得不坚持 到最后

可见,从语言及文体的选择和翻译上,他是主张直译的。

立间译:译文易懂,所选词多为和语词汇。如「引き止め る」「人」「おれ」「腹の虫」「勝手」等,均是日常生活中常用词。译文在阅读方面比井波译文流畅。日本学者高岛俊男对立间译本作了如下评价:

「今では 『三国志演義』のちゃんとした良心的な翻訳が出ている。立間祥介先生からの訳したものが徳間文庫に入っている。」

译文: 现在出版了严肃的 有责任心的 三国志演义 的译本 那就是立间祥介先生的译本 已选入德间文库

立间译文还有一个最大的特点,那就是用另起一行的话语方式来改变故事主人公的话语方式,使叙述者回避,让会话主角置前。小川译文没有用此方法,井波译文时用时不用。比如,“「……」と劉備”,(……:表示对话部分)井波仅仅是用符号键「」方式将故事对话者的话语直接放置在里面,不采用另起一行方式,意味着故事中人物的对话部分被当作普通的叙述话语方式来处理,是故事的讲述者在替代对话中的人物在述说。而立间则尽可能将“「と劉備」”等的话省略,将对话部分放入「」括号中,并换成前后两行,为「……」「と劉備は言った」和「……」,另起一行,则述说的效果就不一样了,它将对话人物从幕后推到前台,让故事中的人物均成为话语主角,造成故事人物就在现场,直接面对观众。同时,让听众直接面对故事主角的声音,就像在说「落語」一样,给人身临其境的视觉氛围。在立间译文里,凡是对话部分均采用此种方法。事实上,日语文本一般都是用直接叙述法的表达方法(日语叫「直接話法」)来表达或传递信息的。安西徹雄在『日本文の翻訳』中,认为:

「一般的に言って、日本語は英語より直接話法的な表現を好む傾向が強い。「視点の移動」の結果だ。つまり、話者が他人の言ったことを報告するとき、あくまで報告者としての客観的な視点を貫くのではなく (間接話法とは、つまりはこういう客観的な報告の仕方なのだが)、発言した人の立場に一体化して、その人の視点から、あたかも当人が今現に話しているかのような報告の仕方をするのである。」

译文: 一般而言 与英语相比 日语倾向使用直接叙述法 这是 视角移动 的结果 总之 说话人在汇报他人的话语时 原则上不是 从作为汇报人的客观的视角 所谓间接叙述法 原则上是一种客观的 叙述方法 ), 而是与说话人的立场相一致 从说话人的角度 恰似说话 者本人正在现场进行叙述似的话语方式 这就叫直接叙述法

正如安西所指出的那样,日语文本的信息沟通是将叙述者改变身份,设定为话语主角,并从话语主体角度出发,采用直接叙述法来传递信息的。

「一般に日本語のテクストでは、過去の事を物語っているにもかかわらず、過去と現在の時称が頻繁に交代して、それが日本文の自然な流れやリズムを作っているといわれる。」

译文: 一般而言 不论是否叙述过去所发生的事 在日语文本中均 频繁交替使用现在和过去时态 人们通常认为这可形成自然的日语和 节奏

比如,英语文本中的过去时,在日语文本中一般都变为现在时,如果英语文本第三人称过去时态的叙述主体的视点是固定的,而且是间接的、客观的传递信息,其结果势必产生翻译腔日本文,日本人是很难阅读的。日本学者伊原纪子也谈到:

「そこで語り手の視点から客観的に述べられた地の文や間接話法、あるいは自由間接話法が、 TT (Target Text) では作中人物の視点で直接話法として表出されているなら、それは同化翻訳であり、 ST(Source Text) の三人称視点のまま間接話法として表出されているなら異化と捉えることが出来る。」

译文: 因此 从叙述者的视角 客观地叙述会话以外的部分 或在 目的语文本中 以作品中人物的视角用直接叙述法表达出间接叙述法或 自由间接叙述法 这就叫同化翻译 而以源语第三人称视角 原封不动 地用间接叙述法表达出来 可理解为异化翻译

板坂元在『日本人の論理構想』中也认为:

「語り手と主人公の視点移行と時制の変化は、日本人には自然な「時空の遠近法」であるとし、視点を固定して時制を統一し、文末を「……た」で統一した文などは不自然で、読者もそのために非日常的な緊張を強いられる。」

译文: 叙述者与主人公的视角移动和时态的变化 日本人将其视为 自然的 时空远近法 ”, 而将视角固定统一时态 文末用 “……た” 文章结构 是不自然的 为此 读者也被迫感到异常紧张

所以立间译文文本作这样的处理是符合日本人的审美心理和语言表达特色的。在原语会话的翻译层面上,采用了归化的翻译方法。这是立间译本不同于其他三种译本的独特之处。

村上译:译文相当随意,添加了原文中所没有的词,如「騒ぎ」「結局」「納得」等,语气上也随意,如「アン」,「じゃあ」,还有在句子的后面没加上句点。这是有意而为。正如在他翻译的『完訳三国志』最后一卷「秋風五丈原の巻」的“あとがき”中,他是这样说的:

「……『演義』の文章には、このような中国の人と、わたくしどもの、ものの考え方の相違により、わたくしどもにとっては不必要な文句がたくさんにある。わたくしは、そのような文句を敬して訳さないことにした。おかげで、ありがたいことに、どんなにか訳文を縮めることができたのである。『演義』の文章が各国の近代文学の文章とひどく違いすぎていること。これもまた翻訳にあたっての障害をなすものである。すでに申しあげたとおり、もともと講談の基盤の上に成長した物語であり、その編集者、大成者、改定者である羅慣中にせよ、毛宗崗にせよ、この基盤を崩すことはしていない。したがって、そこには描写というものがほとんどない。特に人間の心理描写に至っては皆無である。一切がアクションを通して語られているし、また、それを語ることばはいわゆる 「陳詞.濫調」なのである。ありきたりの型にはまった月並みなことばなのである。しかもそれが極端に使われている。……口演の講談だと、これらの 「陳詞濫調」がはなはだ効果的である。すなわち急いでいく場合には必ず 「星月……」であり、戦は必ず 「大喊……」で始まり、大将の出陣には必ず 「領兵……」云うがつく。このほか、怒りは必ず 「大怒」または 「怒」、笑いは必ず 「大笑」、または 「笑」。それが何百回も繰り返される。口演の講談だと、これらの 「陳詞.濫調」がはなはだ効果的である。第一、誰にもよく分って説明を要しないし、はなしのテンポを速めるうえにも、これほど便利なものはない。したがって中国の講談師は、話の半分以上を平易な文章語——ということは、すなわち 「陳詞.濫調」——でやってのけている。そうしないと、冗談になり、聴衆があくびをするのと、また、話に重味がなくなってしまうからである。『演義』の文章は、実にこのような文章である。近代の小説の文章ではないのである。それなら、これを講談口調に訳してみたならどうであろうか?結構である。しかし、その場合には訳ではだめだ。土台から書き直し、日本の観衆のイキにぴったりあわせなければならない。「……でござる」とか 「……であります」調で訳しただけでは講談にはならない。一見に非常に楽に訳せそうに見える 『演義』が、実は、このように手におえない文章である。ただし、しかもそれでいて中国の読者のイキには美事にぴったり合っている。わたくしは、あちらに長らく居るあいだに、その点を身にしみて感じ取ったことである。わたくしは、だからして、これを訳すにあたり、もっとも考慮したのは文章の調子を日本の読者のイキに合わすことであった。そして、それがために必ずしも小心翼翼、原文の字句にばかりこだわってはよられなかった。……結局、私は 『演義』が中国の読者のイキに合うように、訳文もまた、日本の読者諸氏のイキに合わすことに重点を置いたのである。また原文には一種のリズムがある。私は、その点も考慮した。なぜなら、話のテンポと、文章のリズムとは表裏をなすものなのである。私はまた、会話にメリハリにもっとも注意を払った。メリハリがなくでは会話にならないと思うから。」

译文:《 三国演义 中国人及其思维方式与日本人有差别 日本人来讲有许多不必要的套话 对这样的套话我决定不予翻译 这样 能缩短不少译文 。《 三国演义 的文章与各国的近代文学大不相同 翻译时 这就构成了障碍 正如我在前面已经说过的 ,《 三国演义 在评书的基础上编撰的 这个大框架是不能拆散的 因此 ,《 三国演 中几乎没有描写 特别是心理描写近似空白 其描写是通过动作 来展现的 叙述动作的语词就是所谓的 陈词滥调 ”, 是司空见惯的套 。《 三国演义 并将其发挥到了极致 。…… 因为是口头评书 这些 陈词滥调 极其有效 急走时必定是 星月 ……”、 交战时必定 大喊 ……”、 大将出场时必言 领兵 ……” 此外 发怒时必定 大怒或怒 ”、 高兴时必定是 大笑或笑 这些 陈词滥调 复出现几百次 它们在口头评书中极其有效 第一 不需说明 谁都能 可以加快话语的速度 没有比这更便利的话语了 因此 中国的评 书人用浅显的书面语即 陈词滥调 将一半以上的话语将就对付过去 如果不这样的话 话语冗长 听众提不起兴趣 话语将失去分量 。《 国演义 的文章 实际上就是这样的文章 不是近代小说 尝试着将 其译成评书语调 如何呢 是可行的 但在此场合下 仅译是不行的 要整个儿重译 译文必须切合日本听众的步调 仅用 “……ござる”、“……であります” 调翻译不成其为评书 看上去似乎很容易翻译的 三国演义 》, 实际上并非如此 不过 ,《 三国演义 却很契合中国人的 步调。我在中国呆过很长一段时间,对此深有感触。所以,我翻译时主 要考虑的是译文要符合日本人的步调。为此,不必小心翼翼地拘泥于原 文的字句。总之,我认为正如《三国演义》符合中国的读者一样,译 文也必须符合日本的各位读者,这是我翻译时所考虑的。另外,原文有 节奏感。对此,我也加以考虑。这就是为什么话语的速度和文章的节奏 表里如一的原因。我更加关注人物会话的声调—强弱及抑扬顿挫。没有 了这些,就不成其为会话了

从这些表述中,我们可以窥见村上的翻译观:不拘泥于原文字句,重视读者并以目的语文化为依归,译文易懂、流畅,符合日语的语言表达,是典型的意译。这种翻译态度受到了明治时期翻译家们特别是森鸥外的影响。森鸥外翻译了丹麦小说《即兴诗人》,于明治 35 年出版,其译文在日本知识界引起了很大的反响。对此,岛田谨二评论道:

「鴎外の翻訳は原文を読みこなし、すっかり自分のものにしてから打ち出すという方針でいわゆる直訳はしない。あくまで意味を正しく伝え、しかも、それがりっぱに日本文になっているというやり方であった」为达此目的,他在进行翻译时,恪守「原文を崩さないという根本方針を堅く守りながら、ときに彼自身の言葉を原文のようにはさんだり、文勢を蓄えるため、あるいは簡潔なスタイルにするため、あるいは余韻を深めるため、原文の一節(時に数節)をあっさりけずってしまう。」

译文: 鸥外采取的翻译方针是透彻阅读 理解原文的基础上 完全 变成自己的东西之后提出来的 即不是所谓的直译 总之 是正确的传 递原文的意思 并译成自然的日文 为此 坚持在不破坏原文总的原则 或在译文中加入自己的语言 或为保留文章的气势或为了变成简洁 的文体或为了加深余味而删除原文的一段 有时是数段

以这种方式进行大胆的处理,达到了很好的效果。

井波译:通俗、易懂,流畅。在选词方面较谨慎,多选用汉语词汇,如「生来」「人間」「心頭」「高官」等,能造成视觉上的冲击力,但是给读者的感觉稍有些生硬。译者的翻译态度是即尊重原著,尽量选用汉语词汇,同时又竭力照顾目标读者的阅读期待,力求通俗易懂,追求“歴史的現在”。译文讲究一字一句对应,字句对译,带有汉文调文体,是学者型译本。这种汉文调的译文文本,是受到了“和汉混交文”的影响。谷崎潤一郎认为:

“和汉混交文”就是汉文调文体,他在『文章読本』中这样说道「漢文調と云ふのは、保元物語や平治物語などの軍記物語からもちいはじめるた文体で、在来の和文に漢語を交え、また漢文を日本流に読み下す時の特別な云いまわしを交えたものでありまして、いわゆる和漢混交文のことであります/

译文: 也就是汉文调的文体 是指日本人用来描写日本战争题材的 古典作品中 保元物语 平治物语等 所开始使用的文体 它是在日 本固有的 和文 中夹杂汉语 或者按日本式阅读汉文的方法改写汉 其中夹杂有特殊的表达方法

其实明治时期的翻译家们在翻译西方文化时,大量使用汉字或利用汉字的组词方式创造了“和制汉语”来弥补日语词汇的不足,为了调整译文的语调而采用了受汉文训读法影响的汉文体。近代以后的造语「翻訳語」,大多由二字汉字组成,其理由可归结为和汉混交文体。对此,日本学者柳父章作了精辟的论述:

「古代大和の頃以来、日本製の高級な文化用語は漢字二字で作られるようになり、やがてこれらの漢字語を、伝来の大和言葉と組み合わせて、和漢混淆文が作られてきた。そこで作られた文体では、二字の漢字語は意味の中心になるので、字形の上でも四角張った漢字として、付属語などの大和言葉の 「かな」の柔らかい字形に対して際立っていた。また,文のイントネーションでも、四拍または三拍で一塊の漢字の音は、一拍または二拍で読まれる 「かな」の大和言葉に対して際立っていた。すなわち、こういう和漢混淆文体においては、意味の中心になる言葉は、漢字二字であることが文体から要請されていたのである。」

译文: 日本自古代以来 用汉字两字创造了高级文化用语 不久 把这些汉字与世传的大和语汇组合在一起 创造了和汉混合文体 中心 含义以二字汉语为主 字形上也是四方形方块汉字 而大和语汇 则是柔软的字形 还有 在文体的语调上 用四拍或三排构成的 一组汉字的读音 明显不同于用一拍或二拍发音的 假名 ”。 总之 这种和汉混合文体中 二字汉字成为意义中心语汇 这是由于文体的要 求使然

对汉文体的特征,加藤周一作了如下总结:

“第一,继承了古典中国语言中简洁的性质,这是近似口语的日语文体中不具备的特征。第二,语调持独特的缓急,文章蕴有流动。为了把文章写得流畅,多采用定型表现(然而、况且)、对句,引用中国的古典故事、成语、比喻是有效的方法。第三,汉文体是明治初期的知识阶层熟悉的文体,故易懂,起码是给人易懂的印象。但是汉文体却远离日常口语”

对汉文调译文,井波是很推崇的。她在「『三国志演義』を訳し終えて」文中,表明了自己的看法:

「日本の 『演義』の翻訳の嚆矢とされるのは、湖南文山『通俗三国志』であり、漢文訓読調の荘重にして雄渾なリズムにのせた、古今の名訳として知られる。私自身この 『通俗三国志』の語り口には抗しがたい魅力を感じずにはいられないが、原文の語り口はもっとサラリと端正であり、むしろ淡々としている。詠嘆に流れず、あくまでも淡々と語りながらタイトな緊迫感に満ち溢れた文体といえばよかろうか。」

译文: 日本第一个 三国演义 的译本为湖南文山的 通俗三国 》。 以庄重的汉文训读调和雄浑的节拍 成为古今名译而闻名日本 在我自己看来 我不能抗拒文山译本的话语方式 感觉魅力无穷 。《 国演义 原文的话语方式与其说干净利落 不如说显得平淡 不流于 咏叹 可以说是一边娓娓道来 一边充满着紧张感的文体

可见,井波译文竭力想模仿《三国演义》的文体,用了很多的汉语词汇,也有不少汉文训读调的译文句子,可以看出其译文显然受到了湖南文山的影响。汉文体也深深地影响着明治时期的翻译家,如中江兆民用汉文来翻译的ジャン.ジャック.ルソー J .- J.Rousseau的Du contrat Social 『民約訳解』(即现在译为『社会契約論』的日语版),于 1882年在日本(明治 15 年)出版,里面就使用了大量的汉语及表达方式。该书的出版对明治前期的日本民权运动的勃兴及对近代日本的学问和思想产生很大的影响。这样一本宣传民主主义的大众读物,面向大众进行思想启蒙,按理应该使用大众都能读的语言,但译者为什么要反其道而行之呢?柳父章认为:

「兆民は、もちろん日本語でものを考えていたのだが、西洋渡来の言葉を翻訳するのに漢字を使うときには、何よりも漢語でものを考えていたのである。ここで漢語というのは、日本製の漢字、漢語Sino- Japanese ではない。とくに近代以後における日本の漢字、漢語のことではない。また中国語というのとも違って、中国語の古典文章語Chinese characters のことである。」

译文: 兆民毫无疑问是用日语来思考的 但是使用汉字翻译西方传 来的词汇时 用汉语是最好不过的了 此时的汉语 不是日本造汉字 汉语。也与现代汉语不同,是汉语的古典书面语

他认为日本在明治初期用汉字、汉语对译西方先进文化词汇而形成的「和製漢語」,与日本人自古以来传统的用法相去甚远,也与从中国母国传来的汉字本来的含义不同,而是与西方语汇的概念很相近似的一种有别于「日本語」和「西洋語」的「第三の言葉としての翻訳語/作为第三种语言的翻译语」

另外,井波活用了拟声词“ヘイヘイ”,刻画了张飞直率、嫉恶如仇的个性,达到有声胜语言的效果,让人体味当时的场面,有“于无深处听惊雷”的效果。正如她在翻译《三国演义》时所言的,追求一种“歴史的現在/用现代语言再现历史小说”。她于 2008 年 2 月 16 日,在接受日本京都大学校内杂志《京都大学新闻》(「京都大学新聞」)的采访时,表明了她的这种翻译态度:

「問:昔の中国人が話していた、語っていた言葉を現代の日本語に直すのはとても大変なことと想いますが…/把古代中国人叙述的话语翻译成现代日语,是很难的一件事情吧…」

「答:そこに 「翻訳の難しさがあり」。現代の日本に生きる私が読み、訳すのだから、言語感覚をそのまま引き出すのは無理であって、今の時代に現在的な時間として動く演義世界が描けたらいいなと。「いま、ここに」描かれる三国志世界、「歴史的現在」みたいな感じで。海外の歴史物語を翻訳するときに 「ござ侯」みたいな日本の時代小説風の訳をする人がいるけれど、あれはよくないと想います。言葉のにおいがぜんぜん違いますから。だって私が中国語の原文を読んでいるとき、たとえば関羽がそんな言葉遣いをしていると読んでいませんからね。だれでもそうだと想うけど、外国語を読むときは自動的に日本語化して今の自分の言語感覚で捉えていると想う。だからもしかしたら、三国志の人物が今っぽいおしゃべり方してるな、というところはあるかもしれないね。ああ、一つ気をつけたのはカタカナはやめとこうということですね、三国志の時代の人がカタカナ語を話しているたら、可笑しいでしょう。」

译文: 这儿正体现了 翻译的难处 ”。 因为我是生活在现代的人 用现代人的方式阅读和翻译 所以将中国古人的语言原封不动地引导出 来是很困难的 我认为 如能在当今的时代中 用我们所处的现实描绘 出活生生的演义世界 那将是不错的 有一种描绘成 现在 就是在 这儿 的三国时代 、“ 用现代语言再现历史 的感觉 将外国的历史故 事翻译成日语时 有人用 “ござ 这种具有日本历史小说调的文体 来翻译 我认为不是很合适 是因为语言风格完全不同 所以 我读汉 语原文时 比如 没有读到关羽用了那样的措辞啊 每一个人都是这样 认为的 即阅读外语时 自动地将外语转化成日语用自己的语言感觉加 以理解 所以 也许三国志里的人物 使用现代人的话语方式来叙述 这种情况或许存在呢 有一件事需要注意 不要使用片假名 因为三国 时代的人说片假名的话 感觉是不适合的 有些滑稽呢

我们从中可看出译者的翻译态度是尊重原著,以直译为主,竭力保留原语韵味和文体,同时又照顾到现代日语读者的阅读期待,采用多种手法灵活处理。

1.1.4 中文底本及选择四种日译本的学术依据

《三国演义》也称《三国志通俗演义》或《三国志演义》,是中国四大古典作品之一,凝结着厚重的民族文化内涵,流传极广。现在可以见到的最早版本是 1522 年明朝刊行的嘉靖本。之后,刊本越来越多,但内容几乎相同。17 世纪后半期清康熙年间,由毛声山、毛宗岗父子以嘉靖本为基础,对文字情节做了不少改动等,然后刊行,简称毛本。至今已有 300 多年,内容上没有多大变化,成为《三国演义》广泛流传的版本。

四位译者依据的中文底本《三国演义》版本,为作家出版社或人民文学出版社以作家出版社版本为基础经过整理出版的版本,均为毛本。四位译者在他们的译后记或解说中对翻译所用的中文底本均作了明确的交代:他们的翻译所依据的底本都相同,均为毛本(毛宗岗本),由人民文学出版社出版。其中小川参考了弘治本,最后形成的翻译文本是两个版本的折中本。其理由如下:

「この訳本は、第一冊のはしがきに記したごとく 『三国演義』の毛宗崗を依拠とする。小説の作者羅貫中の原作をそのまま存すると思われるのは、いわゆる弘治本であるが、記述が少しくどく、正史の文をそのまま用いた所も多くて、却って通読に便でないと思われたからである。逆に言えば毛本はまた節略しすぎて物語の委曲を尽くさない恨みも少なくはない。それを補うため、私は弘治本から取っていくらか補った。結局のところ私どもの訳本は二本折衷の形になった。」

译文: 本译本正如第一册的序言中所说的 是以 三国演义 宗岗本为依据的 通常认为小说的作者罗贯中的原作是毛宗岗本 即所 谓的弘治本 其记叙有些冗长 很多地方直接移植正史 三国志 》, 而给通读带来不便 反过来说 毛本太简略又未能叙述故事详情 为了 弥补这种缺陷 我特从弘治本中拆取一部分加以补充 结果我的译本就 是两种汉语原本的折中本

我们选择小川、村上、立间、井波四种日译文本的学术依据是:

1.四位译者均读过《三国演义》第一个日译本,即湖南文山译的《通俗三国志》。他们各自进行再译时,必定受湖南文山翻译态度的影响。罗贯中《三国志通俗演义》的第一个日语全译本是《通俗三国志》,由湖南文山所译,所用底本据小川环树考证为李卓吾本。长尾直茂最近的研究也证明了小川环树的考证。 该译本于日本元禄 4 年在京都刊行。但据日本学者德田武考证,《三国演义》最早的翻译却是在江户时期由著名阳明学者中村藤树翻译的《连环计》和《孔明南征》,收在 1662 年出版的《为人抄》卷 5 中。 关于湖南文山的翻译态度,德田武先生在《李卓吾先生批评三国志》一书作了比较之后,做了总结,归纳如下:

1)訳文は概ね原文に忠実である。

2)訳文における標題は原文を踏まえさらにわかりやすいものになっている。

3)詠史、詩論賛などの文言で書かれた文章、主要登場人物の幼児期の不思議なエピソードは省略される一方、尺犊、上表文などは原文のままにて掲げ、それに訓点を施すという形で訳出されている。

4)きわめて稀であるが、「梅酸の渇きを止むる」逸話など原文にない挿話や注釈を加えている箇所がある、という。

1)译文基本上忠实于原文。

2)译文的标题根据原文且更加易懂。

3)咏史、赞论等用文言文书写的文章,主要人物在少年时期的不可思议的一些故事插曲一概省略,同时对于书简、表文等原样照搬,注上训点,用这种方式译出。

4)在译文中加入原文没有的小故事和注释,如《望梅止渴》逸话等,这种情况很少。

上田望通过考证,认为:

「文山は理解しにくい部分、誤訳しそうな箇所については、省略や言い換えし処理していることが見て取れる。」

译文: 通过比较 我们可以看到 文山对于难以理解的部分 或是 误译的地方采取了省略或换一种说法的处理方式予以解决

长尾直茂则指出:湖南文山在翻译《三国演义》俗语时,有不少错误,而且有的地方没有翻译,这说明了湖南文山对俗语含义不了解或没有俗语的翻译意识。 可见,湖南文山的翻译态度是在忠实于原文的基础上,采取多种灵活的方式来翻译的。日本在相当长的时期内处于文化边缘地带。以中国文化为样本、借助翻译将汉文住上训点改成按日语语序来阅读的所谓“読み下し文”,通过这种翻译方法,从而使私塾的学童都能阅读汉语古典,拓展了汉字及文化的受容范围。日本的知识阶层以能用汉语写作为幸事,同时也证明了自己是知识分子身份。日本人在吸收中国文化时,常常显示出主体性意识,对翻译对象的选择,翻译方法的采用等与自己的风土相结合,显示出了翻译态度,透视出了人文思想。对此,中国古典文学研究专家、日本学者井波律子有如下评论:

「『懐風藻』、『万葉集』の時代から江戸時代にいたるまで、日本文化は中国文化をたくましい咀嚼力によって受容しつづけてきた。しかし、その受容はけっして無限定なものではなく、自らの志向に合わせて、あるいは選別し、あるいは変容を加えるという操作を常に伴うのであった。」

译文: 懐风藻 》、《 万叶集 时代到江户时代 日本人借助强 大的咀嚼力不断地接受中国文化 但是 这种接受绝非无限制的 而是 与自己的趣旨相吻合 或鉴别或加以改变 以这种方式来进行操 作的。

四位译者都看过湖南文山的译本,应该说多少受到了湖南文上译本的影响。法国文学研究者、非常爱读《三国演义》的日本著名学桑原武夫曾断言

「『三国志』はダイジェストや修飾を加えた訳本ではなく、必ず文山訳で読まなければならない/

译文: 不读 三国演义 节译本或加以修饰的译本 必定要读文 山译本

再者,四位译者的译本有继承性,时间上有先后,按照小川-立间-村上-井波的先后顺序来翻译的,后者必定参考了前者的翻译。日本学者井上泰山有如下论述可为佐证,他说:

「一般に、中国の古典文学作品を日本語に翻訳するにあたっては、それ以前翻訳されたものがあればまずそれを参照するのが通例でして、小川環樹氏の場合も、江戸時代に湖南文山によって翻訳された『通俗三国志』と題する旧訳を参照されたようです。」

译文: 一般来说 将某部中国古典文学作品翻译成日语时 如果该 作品有日译本的话 通常的做法是参照该译本 小川环树也不例外 翻译时参考了江户时期湖南文山所译的 通俗三国志

关于此点,也可从译者们的后记或解说中得到应证。

2.四位译者均是日本有名的汉学家,对中国古代典籍有很高的造诣,对《三国演义》及相关的知识背景相当熟悉,理解和把握得较全面、透切。小川环树、立间祥介、村上知行在上世纪 20 ~ 30 年代都到过中国,且造访过《三国演义》中所描绘的历史遗迹之地,村上因为自学汉语而于 1927 年前往中国上海,当时年仅 28 岁。之后于 1934 年到北京,直到 1946 年回国,1976 年 3 月去世,在中国呆的时间相当长。小川环树先生,日本汉学大家,出身书香门第,上世纪 30 年代在中国留学两年。在少年时代极爱中国典籍,他在其著作『中国小説史の研究』的序文中如是写到:

「中国の小説に私が興味をいただいたのは少年のころからである。中でも 『三国演義』の旧訳である 『通俗三国志』をはじめ、『水滸伝』及び 『西遊記』みな江戸時代の訳が 「有朋堂文庫」に収められていたのを愛読し、なんどなく繰り返し読みふけった。馬琴の 『八犬伝』『弓張月』などとどちらがさき立ったかは、もう記憶しないが、読み返し回数はおそらく、『水滸伝』などのほうが多かったであろう。」

译文: 我从少年时代起就对中国的小说感兴趣 其中 我最爱阅读 三国演义 的旧译 通俗三国志 』、『 水滸伝 西遊記 』, 们均收录在江户时期翻译的 有朋堂文庫 经常反复阅读到深夜 马琴的小说 八犬伝 弓張月 』, 最先读的是哪一本我已经不记得 但反复阅读的次数最多的大概是 水滸伝 等小说吧

在大学期间,阅读中国典籍的兴趣更是不减。阅读了平岡龍城氏译、幸田露伴氏加注的『紅楼夢』及胡适的考证,通过阅读,小川先生对原著作者的生平有相当的了解。此外阅读了青木正児发表在『支那学』杂志上、有关『水滸伝』『儒林外史』的论文。 毕业工作之后,得到了当时的汉学名家倉石武四郎、桑原武夫田、青木正児博士等的指导。 受家庭环境的熏陶及自己的刻苦钻研和当时的汉学名家的指导,培养了他丰厚的汉学素养和严谨的学术态度,这为他今后翻译《三国演义》打下了坚实的基础。其翻译《三国演义》从 1948 年开始,历时 24 年,付出了大量的心血,在翻译中作了大量的注,卷后注多达610 余条(还不包括随文注)。为了作好注,他参考了大量的中国典籍,如《三国志》《汉书》《史记》《资治通鉴》《楚汉春秋》等,通过对比考证,作了精当的译注。井波律子先生,毕业于京都大学,曾聆听过汉学大家吉川幸次郎先生的讲义,主攻中国文学,汉学素养丰厚。单独完成《三国志.蜀志》的翻译工作,发表并出版了大量的论文和学术专著,如《三国志演義》、《三国志曼荼羅》、《三国志名言集》、《奇人と異才の中国史》等 50 余部有关中国古典的专著,可谓著作等身。并且读过《三国演义》第一个日译本—湖南文山译《通俗三国志》,文山的翻译态度对她也产生了影响。

3.四位译者对汉语文化语词的处理较一致,不约而同地转化为直录汉字注假名再辅以多种形式的注释(译注,随文注,回目后注,文内注等)。虽然中日均使用汉字,但毕竟是两种不同的语言,汉语对于日本人来说就是一种外语。所以对于日语中的汉字,其读音和中国汉语不同,为了便于日本读者阅读就必须注上假名,日语称为“ルビ付き”标记法或振り仮名标记(即给汉字注假名);而且日语中的汉字和中国汉字的含义并不总是同一的,且汉字在流变过程中有些含义会发生变化,词义或扩大或缩小。所以为了照顾现代读者阅读和接受,用多种形式的注释来解释说明是必须的,这样注释就构成了译语文本的有机组成部分。

4.体现了学者型译文文本和大众型译文文本,反映了两种翻译态度。小川、立间、井波三位译者尊重原著,歇力传译原语文本的语言和文化,主要采取了直译的翻译策略,在译语文本中体现为直译加注释,训读法加注释。具体为:汉字加注假名加注释;村上则采取以目标读者为取向的归化策略,即意译。具体为:转化为和语词汇,并用随文注加以解释说明。

5.四位译者对汉字的注假名选择标准并非简单的形式化。而是根据不同的情节及语境,经过个人的判断而作出。均体现了尊重原著、忠实于原著的翻译态度。如第 10 回回目对汉字“師”的选用。

汉语原文: 勤王室马腾举义报父仇曹操兴师 10 回回目 P80)

小川訳:王室に勤(ちゅうぎ)せんとして馬騰義兵を挙げ父の雠(あだ)を報いんと曹操師(いくさ)を興す

立間訳:王室に勤(つと)めんとして馬騰義兵を挙げ父の雠(あだ)を報いんとして曹操師(ぐん)を興す

村上訳:王室をたてんとして、馬騰が攻め寄せ父の雠をむくいんがため、曹操が師(いくさ)を興す

井波訳:王室のために勤(つと)めんとして馬騰義を挙げ父の雠(あだ)を報いんとして曹操師(へい)を興す

本段回目中的“师”,小川、村上训读为“いくさ”,立间和井波则分别为“ぐん”“へい”。可见,“师”在四位译者的笔下,有三种注音,也就是说有三种译法。上述翻译与原语几乎字字对译,保留了中国古代演义小说的叙事结构,是忠实于原语的翻译。只有村上将“举义”译意为“攻め寄せる”,立间加了一个兵字为“義兵”,但并不影响对原语语义的正确理解,恰恰说明各位译者对《三国演义》回目翻译的态度。小川、立间和井波基本上是直译,尽量用中国汉字,同时运用同字异训法,将汉字或配以训读,或配以音读,传译原语的节奏和风格,即异化翻译策略(日语叫異化訳)。村上则直译与意译结合,偏重意译。对回目中的汉字主要配以训读,过多地考虑目的语文化和日本读者的可接受性,即归化翻译策略(日语叫同化訳)。小川在翻译原语回目时,对原语的理解很准确,所以表达很贴切,他是把选词与具体语境结合在一起的。如本文的语境是:王允用美人计杀了董卓后,朝廷更加混乱。董卓部下李傕、郭汜独揽大权,残虐百姓。朝廷官员任由二人升降。此时西凉太守马腾,为勤王室,清君侧,亲率大军讨伐二贼,最终以失败告终。而曹操招贤纳士,迅速扩充自己的实力,拥有 30 万人的“青州兵”。讨贼有功,威名日重,朝廷加封为镇东将军。于是曹操便派人接自己的父亲等一般人来许昌团聚。路过徐州,徐州太守徐谦想和曹操拉上关系,派军队一路护送。不想一家人被护送的军队所杀,于是曹操迁怒于徐谦,发兵讨伐徐谦,并切齿曰:“徐谦纵兵杀吾父,此仇不共戴天!吾今悉起大军,洗荡徐州,方雪吾恨”并令“但得城池,将城中百姓尽行屠戮,以雪父仇。”可见曹操之起兵,并非为勤王,而是私仇。根据这一历史事实,回目中的“师”解读为发动战事、挑起战乱,用“戦(いくさ)”,更契合历史语境。“いくさ”的另外一个汉字为“軍”,四位译者弃而不用,可见是为了尽量忠实原文。日语中用字不同则意思,意象不同,意蕴不同,褒贬也自然不同。同时也反映出译者对原语文本进行解读时的翻译态度和方法。如《三国志.魏志倭人传》中关于日本人名、官名、地名的命名,其用字明显带有对蛮夷之邦的歧视乃至鄙视的成分和色彩。中国自古就称为世界的中心,乃天朝上邦大国,对四方蛮夷之国向来不屑一顾,蛮夷之邦乃化外之地,四夷之民又何以言礼?四位译者均利用汉字的表意功能,采取尽量直接移植原文中的汉字,并配上和训,力求易解、易阅读。尽量仿中国章回小说,追求对仗句,置换成書き下し文;利用同字异训,同字异训即相同的汉字,有不同的日语读法。如汉字“生”,就有“せい”“なま”“いき”“う”“うまれ”等。同字异训这种转换方法在日译文本中大量运用,这一方面反映了译者忠实原文的翻译态度,另一方面也表明了译者对原文的理解。 Tk29eW8Tz6XQgM2KYjRmv+kk8O+94OOEK7yc6bqB/6Vt5fgopHnCIRkjwknxcAD1

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