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三、黄檗文化の内包と流衍

黄檗文化は長い歴史をもつ精神文化と独特で鮮明な福建の宗教伝統から育まれ、その形成、発展、興隆、伝承は千年に及ぶ融合、変化、派生の過程を経たものである。では、黄檗文化とは何だろうか。

早くも昭和47年(1972)年、日本の学者林雪光が編纂した『黄檗文化』(京都宇治黄檗山万福寺発行)の中で、「黄檗文化」という概念を最初に打ち出した。しかし、本書は主に黄檗禅僧の書道、絵画作品の展示であり、黄檗文化とは何かを明確に述べていない。

2016年春、福清市の民間学術組織——福清玉融文化研究会の内部刊行物『玉融文化』には、地方文化研究者の厳家梅氏の文章『天下を突破し、祖を念じ根を忘れない——「黄檗文化」の精髄とその現実的意義についての試談』が収録されている。この文章は「黄檗文化」とは何かについて、初めて明確に定義した。この文章では、狭義のいわゆる「黄檗文化」とは、臨済宗を中心とする禅宗文化を指し、広義の「黄檗文化」とは、禅宗仏教文化の影響を深く受け、中華伝統文化を中心とした福清地方文化を指すと主張している。

2017年、隠元禅師と黄檗文化の研究、普及に長年尽力してきた学者林観潮は、『隠元大師と黄檗文化についての卑見』との文章には、「黄檗文化」というのは日本黄檗宗を中心に、江戸時代に形成された社会生活の各方面に影響を与える総合的な文化であるという新たな理解を打ち出した。

2020年に出版された「黄檗文化」に関する総合研究書『黄檗文化の研究』では、「黄檗文化」とは何かについて、総括的に表現されている。「黄檗文化というのは福清を中心とする中国南東部の沿岸地域で発祥されて日本で隆盛された、仏教文化を媒体とし、同時に思想、文学、言語、建築、雕塑、印刷、音楽、医学、茶道、飲食、絵画、書道、篆刻など多くの分野にわたっており、日本の江戸時代以来の社会生活に全面的に影響を与え、東南アジア地域全体に拡大した総合的な文化形態である」。(廖深基、2020)

黄檗文化は深い歴史淵源を持ち、絶えず成長·拡大し、日本に東伝され、日本の社会·文化生活のあらゆる面に深い影響を与えた精神文化であることがここからわかるだろう。そのため、黄檗文化の初期形成は福清黄檗山万福寺を中心とした禅宗文化であり、中唐·晩唐以来の禅宗文化の重要な構成部分であった。この時期の黄檗文化の代表である黄檗希運は、彼の師承脈絡が六祖慧能、南岳懐譲、馬祖道一、百丈懐海であり、彼と弟子の発揚を通じて、やがて中国禅宗の延々と続く宗派——臨済宗を創始した。

禅宗の中で最も広く影響を及ぼした臨済宗の中核的な部分は、黄檗文化の発展の第一段階であったと言える。唐代から宋代、ひいては明代まで、禅宗臨済派は、宋代の文人文化、理学文化に深刻な影響を与え、特に南宋陸九淵から明代の王陽明までの心学を直接啓発した。その意味で、黄檗文化は宋·明の中国文化全体の発展と密接に関係しており、唐·宋以降の中華伝統文化の発展を促進·構成してきたと言える。「黄檗文化」は、初めから単なる地方の文化ではなく、その核心内容は、飲食、風俗、習慣を中心とした地方性民俗文化の伝統でもなく、中華文化の核心的な精神伝統の一部であり、歴史上から見れば、「黄檗文化」は唐宋以来の士大夫文人文化、閩地理学文化、禅宗仏教文化がお互いに織り成した産物である。

「黄檗文化」は福建海洋文化系統の中で、さらに海上シルクロードの共生文化の影響を受けており、その中国文化精神の内核は次第に海上シルクロード沿線国や地域の多元的な文明と結合して、海洋文化の独自の特性と、単独的特徴を持った海洋文化と福建省から海外にわたった華人華僑を中心とする華僑文化で形成された。全世界史の角度から見ると、17世紀から18世紀にかけての人類の文明は、大航海時代の到来につれて、西ヨーロッパの世界をめぐる航海にしても、新大陸の発見にしても、中国の明朝の鄭和の西域航海にしても、中外の文化交流は日増しに頻繁になっていた。かつて人類を恐れさせた広大な海洋は、すでに征服され、ほとんどすべての海洋に、異なる国、異なる文化の船が行き交い、多彩な遠洋の帆がたなびいている。大洋の上では、日増しに頻繁になる東西貿易、異文化間の交流と対話が行われている。中西文化、中日文化、中国と東南アジア文化交流の使命を背負った文化巨匠たちと使者たちは、この時期に、自らの輝かしい名前を、長い歴史の星空の中に映した。その中に、黄檗文化交流の使者たちの名前が特に光を放っていた。

「黄檗文化」はまさにこのような開放、交流の歴史の過程で形成された文化形態だったが、はじめは中国文化の代表的な存在で、禅宗文化、文人文化、理学文化を総合したものであった。一方で、黄檗文化関連の歴史人物は、また日本、東南アジアなどの国と地域の人々と密接な関係にあった。彼らの文化成果は、海上シルクロードが異国に持ち込まれた後、自発的に現地社会に溶け込み、中華文化を外部に伝播すると同時に、現地固有の文化と結合して、新しい文化成果を形成し、現地の民衆と在留華人華僑の共通の生活様式となった。

福清竹溪寺,林希逸竹溪书院旧址,温志拔摄

林希逸竹渓書院跡地 福清市竹渓寺 (温志抜撮影)

宋代の林希逸の三教融合思想文化の東伝から、隠元禅師師弟の東渡まで、いずれも中国の物質文明と精神文化を伝え、日本の社会文化の発展に影響を与え、江戸時代以降の独特な文化生活方式を形成した。これらのことから、元明以降の「黄檗文化」の発展が新たな内包を生みだし、中外文化の交流、融合、共生の新たな文化形態となり、千年の海上シルクロードと海洋文化の産物であり、華僑文化の重要な構成部分だったということが明らかになる。

この意味で、唐代の中外文化交流の象徴的な事件といえば、玄奘が天竺に西遊したことのほか、鑑真和尚が六回も日本に渡り、日本が遣唐使を長安に派遣したこともある。明清時代の中外文化交流の象徴的な事件は、キリスト教宣教師の中国への進出と西洋学問の東洋伝来のほかに、黄檗禅僧が日本に渡航し、宋明以来の中国の優れた文化成果を広め、近世の日本社会の進歩を推進したことである。現代の時期、特に1972年の中日国交正常化以来、「黄檗文化」は日増しに中国両国の文化交流の新たな友好の架け橋となっている。21世紀に入っても、「黄檗文化」は引き続きその架け橋と紐帯の役割を発揮し、中日両国間、中国と東南アジア諸国·地域間、新たな海上シルクロードの建設、人類運命共同体の建設を推進する新たな媒体となっている。

中日国交正常化から50年、日本臨済黄檗宗協会を代表とする仏教学界は、前後にして友好訪問団を数十回も派遣し、中国福清黄檗山萬福寺との間を往き来して祖庭を拝み、さらには福州、泉州、漳州等の歴史文化都市、海上シルクロードの重要港湾都市において旧跡を訪ね、重層的、全方位的な文化交流活動を展開している。

新世紀に入ってから、「黄檗文化」を主な媒体とする中日文化交流活動は、衰えることなく、より高いレベルで、より大規模に、より深く、立体的に展開されており、民間交流訪問の場となり、思想学術分野研究の共通対象と両国間の友好の象徴ともなっている。

2015年4月、福清黄檗文化促進会が設立され、5月には促進会会長林文清が、中国仏教会の代表法師を率い、日本黄檗の古跡を訪問し、在日華人·華僑の代表と広く連絡を取り、日本に伝わる様々な漢籍文献を影印した。同年10月に、日本黄檗促進会も東京で設立され、これを交流の場に、中国福清とより高いレベル、より広い分野の文化交流を徐々に進めている。設立後、日本黄檗促進会は、日本国内の各界から高く評価され、その中で、日本の七大日中友好団体の一つである中日協会理事長の白西紳一郎氏が自ら名誉会長を務め、日本黄檗宗の宗務総長、著名な在日愛国華僑、在日各地の福建同郷会会長、在日の有名な学者などがそれぞれ促進会の顧問を務め、すでに千人余りの会員がおり、中日民間友好往来の促進において、重要な役割を演じている。また、2016年12月6日から16日にかけて、中日国交正常化45周年にあたり、日本在住の芸術家馮学敏が、日本の東京中国文化センターで『福建·烏龍茶の故郷と福清の黄檗印象』をテーマとした個人写真展を開催し、芸術展の活動を通じて黄檗文化の魅力を紹介し、中日両国の民間文化交流のために華麗な楽章を奏でたのである。

学術研究の面では、ますます多くの専門家と学者が黄檗文化と中日関係の研究に関心を持つようになり、長期にわたって研究してきた大陸の学者林観潮、台湾の学者廖肇亨、徐興慶らが、力を尽くして隠元隆琦、独立性易などの文集を整理し、研究専門書を出版し、多くの研究論文を発表したほか、ここ10年、華東師範大学、東北師範大学、厦門大学、福建師範大学などの国内の各有名な大学では、黄檗文化研究に関する修士、博士号論文が十数編発表され、隠元師弟の事績、文学芸術の業績、茶文化、医学の業績など幅広い分野に及んでいる。

特筆すべきは、ここ数年、学長廖深基教授の強力な提唱と積極的な推進の下で、福清に創立された唯一の本科大学として、福建技術師範学院は日増しに新時代の「黄檗文化」研究において最前線の地となっていることである。2015年8月、福清黄檗文化促進会が設立された当初から、大学側は関係指導者を送り検討を重ね、協力の推進について話し合った。こうして一丸となって努力した結果、2017年7月、福建省教育庁の認可を得て、本学初の福建省内大学人文社会科学研究基地である「黄檗文化発展研究センター」の設立を迎えることができた。これは国内初の黄檗文化を専門に研究する省レベルの学術の場である。これを機に、福建技術師範学院は国内外の関係専門家、学者と連絡を取り合い、ともに「黄檗文化」についての研究をより高いレベルに推し進めようという決意を固めたのである。

その2ヶ月後、学長の廖深基教授が自ら院長を兼任し、主要の文科学院院長が副院長を兼任する「黄檗文化と海上シルクロード研究院」が正式に設立され、学内外、国内外の関連研究力を統合し、国際学術会議の開催、研究専門書の出版、古文書·文献の整理、電子データバンクの建設、社会への奉仕などの方法を通じ、黄檗文化研究を学術化、専門化の新たな段階に進めることで、黄檗文化、海上シルクロード、中日友好などの各方面の建設に向け、新たな貢献をしようとする。研究センターと研究院の専門家、学者の協力の下、学校は中国社会科学院世界宗教研究所、中国宗教学会、台湾中華宗教哲学研究社などの科学研究機関と共同で数多くのシンポジウム、フォーラムを主催した。

各国、地域各界の人士の努力の下、千年の「黄檗文化」は発展し、これにより本格的に学術研究の殿堂に入り、新時代における新たな内包が与えられた。

国と政治の面でも、「黄檗文化」を絆として、中日両国、福建省と長崎の交流·相互訪問活動が非常に頻繁且つ盛んになっている。早くも1980年、中国の福州市と日本の長崎市は、黄檗文化の興隆·発展過程における最も重要な2つの地区として、正式に友好都市関係を締結し、長崎は福州市の改革開放後の最初の国際友好都市となった。1982年、中日国交正常化十周年にあたり、福建省と長崎県は、さらに正式に友好省県関係樹立の協議を正式に結んだ。2013年、当時の長崎県知事であった中村法道氏が「日本新華僑報」のインタビューで語ったように、「長崎市は日本が鎖国していた期間、唯一の対外開放の窓口であり、多くの中国人がここに滞在していた。その大部分は福建省籍の各界の人々で、長崎県と福建省は友好省県として、中日両国の友好往来の架け橋となるのである」。(仲偉東、2013)

その30年後の2012年10月、中日国交正常化40周年を記念するため、福建省博物院と長崎歴史文化博物館はそれぞれ相手の博物館で一連のテーマ展示を開催していた。その中の重要な展示品は、いずれも黄檗文化と長崎華僑文化に関連する文化財の珍品であった。

2015年5月23日、中日友好交流大会が北京人民大会堂で盛大に行われた。会議に出席した習近平国家主席はさらに、中国の名僧、隠元大師が、「仏教の教義だけでなく、進んだ文化と科学技術も伝え、日本の江戸時代における経済社会の発展に重要な影響を与えた」と明確に指摘し、中日文化交流史における黄檗文化の重要な意義を十分に認めた。2019年6月、日本の長崎で隠元東渡三百六十五周年の祈祷法会と「隠元禅師と黄檗文化」シンポジウムが開催された。習近平主席はわざわざ祝賀の手紙を送り、黄檗文化が中日両国の文化交流と相互参考の中で行った歴史的な貢献を称賛した。

2019年日本隐元东渡三百六十五周年祈福法会,福清黄檗文化促进会供稿

2019年日本隠元禅師東渡365週年祈福法会 (福清黄檗文化促進会提供)

2017年10月は中日国交正常化45周年であり、福建省と長崎県の友好省·県締結35周年であり、このため、福建省は「中日黄檗文化交流大会」を開催し、長崎県の中村法道知事は再び友好訪問団と黄檗文化交流団を率いて福建省を訪問し、大会で熱意あふれる挨拶をした。福建省政治協商会議の副主席が大会で発言して指摘したように、黄檗文化はすでに中日両国人民の友好交流の共通のシンボルとなっている。

1972年から2022年にかけて、中日国交友好の船は丸五十年の輝かしく、そして平凡ではない歩みを経てきた。歴史を振り返り、未来を展望すると、黄檗文化は、千年を超えて結実した中日文化交流の種も、再び海上シルクロードの新たな航路に沿って、両国のより広い土地に根を下ろし、芽を出し、枝を広げ、葉を散らすことになるのだろう。黄檗文化、この海上シルクロードの真珠は、両国人民の共同の努力の下で、いっそう輝かしい光を放つであろう。 ACPjsl7NT1yFLwHz2r1Vr1T4dY3RhFOHTMApeeuFKwo4bNDj9RSjHAkSGK8iAvxv

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