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一、海浜鄒魯と文化伝承

中国の伝統文化の主幹は、儒教の聖人である孔子と孟子に端を発している。孔子は春秋時代の魯国の出身で、孟子は戦国時代の鄒国の出身である。鄒国と魯国は、春秋時代と戦国時代に斉魯の土地に隣接した二つの侯国であった。後世、伝統文化が栄えた地域を指す言葉として「鄒魯」という言葉がよく使われる。福清は、中国のいくつかの沿岸都市と同様、「海浜鄒魯」とも呼ばれ、それには、優れた中国の伝統文化と海上シルクロードの文化交流という二つの要素が含まれているのである。

福清瑞云塔,林秋明摄

瑞雲塔 福清市 (林秋明撮影)

黄檗文化の形成と発展の土壌である福清は、東シナ海沿岸にある千年の歴史を持つ町であり、豊かな歴史沈澱と輝かしい文化遺産を持っており、儒教を中心とする伝統文化、閩越文化、新興の海洋文化とが交わり融合し、海上シルクロード文化、僑郷文化、黄檗文化など福清の特色のある文化を育んだ。

唐代以来、福清は中原文化の影響を深く受けてきた。中国文化の重点が全体的に東南に移動するにつれ、福清文化も急速な発展期を迎え、晩唐の時期になると、最初の進士である林簡言が現れた。それから清朝の末年まで、ここでは合わせて1400人余りの挙人、700人余りの進士が誕生した。その中には宰相、六部官員、封疆大吏、思想家、文学者、芸術家もいれば、高僧大徳や忠誠義士もいた。同時に、海上シルクロードの重要な出発点の一つとして、この賑やかで栄えた土地には、国内外の交流に貢献した文化使者や、国内外で有名な華人·華僑なども現れた。彼らは自らの知恵、血と汗で、輝かしい伝奇的な人生を書いただけでなく、国内外の文化交流史の壮大な絵巻を共に描いた。

南宋以降、長い文教発展の蓄積により、同時に当時の首都·臨安(今の浙江省杭州)に隣接する地理的優位性にも恵まれ、福清において科挙が発達し、福清とその周辺地域は頻繁に交流が行われ、文化活動が盛んであった。この時期には影響力のある理学者が現れた。例えば、北宋の理学者程頤の愛弟子である王苹は、二程理学が南宋の陸九淵心学に転向した重要な思想家であり、そのほかに林栗、林亦之、陳藻、林希逸との四人の重要な文人、理学者もいた。宋元以来の深い文化の蓄積と科挙社会の長期的な発展があったからこそ、福清はその後に葉向高、隠元禅師などの多くの先哲名賢を育成し、明清以来の中国文化の海外での伝承、影響に重要な役割を果たし、明清の際に多くの晩明遺民を主体とし、中国の古代歴史上最も規模が大きく、階層が最も広く、影響が最も深い文化輸出を直接推進した。

福清は東南沿海の文化名城として、奥深い中国文化の基礎を持っており、唐代以来、有名人が輩出していた。これらの有名人は福清の歴史文化の代表であるだけでなく、唐宋以来の中国文化発展の重要な構成部分でもある。彼らは自分の高尚な人格と、豊かな人生経歴、そして創造性ある思想を用いて、宋元以降の中国の政治社会、思想文化の全体的な進化を推進し、仁政、愛民、発展、開放、革新という中国文化精神の内包を伝承し、豊かにし、伝統文化精神の基本理念を生き生きと解釈し実践し、同時に海上シルクロードの影響力を借りて、明清以降の福清海外華人華僑文化の重要な源を成し遂げた。

進士の第一人者林簡言

林簡言、字を欲納という。福清市漁渓蘇田村の出身で、説によると龍田鎮前林村の生まれだという。生没年不詳。貧しい家庭に生まれ、若くして優秀な成績を収め、唐太和四年(830)に士第に登り、史料に明記されている福清置県後初の進士となった。進士に及第した後、林簡言は、当時の一般士人のように、「良い地位」のために官職を極力求めることなく、天下の大事に関心を持ち、道徳のある文章こそ文人の立身の根本であると信じ、決して曲がったことをせず、功徳を賛える文章を書くことを潔しとしなかった。彼の散文は唐代の古文の大家韓愈に倣い、詩歌の創作は中唐の有名な詩人元結、白居易を手本にしたものである。

林簡言は古今を論じて人々を諭すことに長けており、晩唐の日増しにひどくなる藩鎮割拠の弊害に対し、当代の君臣が享楽にふけ、民衆の苦しみに関心を持たないので、彼は憤然として『漢武封禅論』という文章を書き、当時の暗い政治を皮肉っているのである。この文章は発表されるや否や、文人たちに争って読まれていたが、当朝の統治者の怒りを買ったために、役人に罪をでっち上げられ、林簡言は都から追い出された。結局、林簡言は地方に左遷され、漳州の刺史に就任した。赴任する前に朝廷に報告し、福清の庶民への過酷な課税を軽減するよう要請した。唐文宗はこの報告書を戸部に送り、戸部はまた福建省に転送した。福建省の最高責任者である羅譲は、この報告書を読んで驚き、林簡言を叱責した。「当時、盈州の徐公官は相国であったが、彼はただ朝廷に一つの郷の租税減免を要求しただけである。しかし、一介の州の刺史に過ぎないそなたが、県の租税減免を要求した。これが適切だと思うか」。

しかし、林簡言はこう答えたのである。「福清の庶民の多くは主に畑を耕し、塩を干すことに従事していますが、残念ながら土地は不毛で、何年も干ばつが続いていて、何年もご飯を満腹に食べることができません。その上、塩税が重すぎて、塩を売ってもこのような重すぎる課税を負担することができません。まさか父親と同じ世代の人々が餓死するのを黙って見ていられるのでしょうか。福清は唐聖暦二年(699)に置県されてから百三十一年、やっと私のような進士が生まれたのは、まさにそこがいかに貧しくて立ち遅れているかを証明しているものです。今日の私の成功は、すべて郷族の支えによるものです。もし、彼らのために請願することができなければ、故郷の人々に申し訳が立ちません。それに、教育や国のための人材育成に力を注ぐ朝廷の姿勢をどう示せばいいのですか」。羅譲はその話を聞いて非常に感動し、彼の要求を受け入れただけでなく、それ以降、林簡言を見直して非常に尊敬するようになった。

「建学興閩の第一人者」翁承賛

翁承賛(859—932)、字を文饒という。晩年の号は狎鴎翁で、別名螺江釣魚翁、追号は忠献という。文秀郷光賢里(今の福清新厝鎮)の出身で、または莆陽市興福里(今の莆田北高鎮)の出身であったと言う説もあるが、晩唐五代の政治家、教育者、詩人でもあった。

翁承賛は若い頃非常に聡明で、7歳にして作詩ができていたほどだった。33歳で都の長安に赴き、会試に参加したが、合格できなかった。その後、長安に四年間滞在し、少しも力を落とさず、名師を訪ね、学問を大きく発展させ、ついに唐乾寧三年(896)の進士に合格し、後に博学鴻詞科に合格し、陝西周至県の県令を授与された。その後、朝廷秘書郎、右拾遺、戸部員外郎などを歴任した。

威武軍節度使である王審知をなだめるために、唐天祐元年(904)、翁承賛は福建省に戻るよう命じられ、王審知を琅琊王と冊封し、王審知の手厚い接待を受けることになった。後梁開平二年(908)、翁承賛は朱全忠に抜擢されて諫議大夫に昇進してから、福建省に戻るよう命じられ、王審知を閩王と冊封した。福建滞在中、翁承賛は王審知の管理の下で福州の人々が安居楽業な生活をしているのを目の当たりにし、その功績にますます感心するようになった。開封に戻った彼は師大夫、左散騎常侍に昇進したが、朱全忠の横暴と支配に次第に不満を抱き、毅然として辞任して福建省に戻った。

後梁貞明二年(916)、翁承賛は王審知によって宰相に任命され、福建省の整備を補佐することになった。閩江流域の関所を廃止したことで福建省西部の山岳地帯と南東沿海の物資交流をさらに円滑にし、黄岐半島に「甘棠港」と呼ばれる対外貿易港を開設し、福州の対外商業貿易往来と文化交流の強化に貢献するなど顕著な業績を上げた。翁承賛は福州の文化·教育の発展を重視し、福州で経学、史学、哲学、文学という「四門学」の設立を直接推進し、福州城内で孔廟を興し、優秀な学生を無償で入学させて儒学古典を学ばせた。また州学、県学、農村塾などの各級の教育機関を創立発展することを提唱した。また、翁氏は福州ないし八閩大地の文化事業を大きく発展させ、宋元以降の福建地区の貿易開放、文教発展のために、堅固な基礎を打ち立てた。彼は「建学興閩」の第一人者としても知られている。

唐の時代の発展を踏まえ、両宋時代には、福清の文化的事業は空前の発展を遂げ、多くの憂国憂民の政治家、思想家が現れた。民衆のために請願する鄭侠もいれば、秦桧に反対した黄祖舜もいた。さらに全国と後世に影響を与えた有名な理学者の王苹、林希逸などもいた。

民衆のために請願する鄭侠

鄭侠(1041—1119)、字を介夫、号を大慶居士という。北宋の福清海口鎮の出身で、晩年は県内の西塘に転居したことから「西塘先生」とも称される。北宋治平四年(1067)進士に及第した。鄭侠は生涯をかけて民衆のために請願し、熙寧七年(1074)に王安石の新法が庶民の流離を招いた弊害に感銘を受け、流民図を描き、神宗皇帝に上書し、当時の人々に称賛された。

鄭侠は素直な性格で、お世辞を言うことを好まず、民衆の生活に関心を持ち、しばしば官界の欠点を糾弾していた。そのため呂恵卿、蔡京などの権臣の機嫌を損ね、何度も貴州、海南などの地方に流された。晩年はますます頑固になり、角が立ち始めた。徽宗の時代、彼は何度も権臣の蔡京を叱ったため、官職を罷免されて帰郷することになった。帰郷しようと都を離れるその日、蔡京は自ら人を連れて城門の外で鄭侠一行を呼び止め、鄭侠の荷物である十個の大きな箱を指さしながら、陰険な口調で「先生は今日は光栄にも故郷に戻られるので、いろんなものを持って帰られるでしょう。私はわざわざ先生を見送りに来たのです」と言ったそうだ。すると鄭侠は皮肉たっぷりに「太師のおかげで、私は一生役人でありつづけた上、起伏も多く、何度も左遷されてきました。いまさらそんな私が何か宝物を持っているとでも言いたいのですか」と言った。蔡京は「先生のおっしゃるとおりです。しかし、何を言っても今日は是非見せてもらいましょう!」そう言って、部下に箱を開けるように命令した。その結果、九個の箱を開けても、中には瓦礫や石ころばかりだった。蔡京は恥かしさ余って怒り出した。最後の箱を開けると、文房具や本しかなかったが、箱の底にはもう一つのものが隠されていたようだ。蔡京は青ざめた顔で「これは何ですか」と訊ねた。鄭侠はこう答えた。「これは埃払いです。小官はこれで時々掃除し、心も清らかに保てたのです。」そう言いながら、手の中の埃払いを手にして、わざと蔡京の体を軽く拭き、笑いながらこう言った。「そなたのこの体は、恐らくもうきれいにできないでしょう」。蔡京はへどもどして何も答えられなかった。これが「一払い先生」という称号の由来である。(兪達珠、2008)

官吏として正義を貫く黄祖舜

黄祖舜(1100—1165)、字を継道、晩年に号を強渓宮人とし、平南里(今の福清東瀚鎮)の出身である。黄祖舜は若い頃、理学者の胡安国に師事し、北宋宣和六年(1124)に進士に及第したが、南宋紹興初年になってから浙江衢州の教授に任じられ、その後趙構に召され、守軍器監丞に昇進し、さらに屯田員外、兵部員外郎、吏部員外郎などを務めた。

黄祖舜は在官している間、権力者に迎合することなく、まっすぐな性格の人物であった。当時、権臣の秦桧は理学官を登用しようとしたが、黄祖舜は秦檜に媚びることなく、秦桧が実行した地割、称臣、納貢の議和政策に反対した。金国の侵略に断固として抵抗すると主張したが、秦檜に排除され、宋高宗に都から転出され、皇族の事務をつかさどる閑職に就いた。

紹興十八年(1148)、興化軍知事であった傅自得は、秦桧の部下が泉州太守の趙令衿の汚職を冤罪した事件を審理していた。傅自得は、趙令衿が秦桧と同流になりたくなくて中傷されたことを知りながらも、秦桧の暴威や報復を恐れ、板挟みになっていた。人のアドバイスを聞いて、わざわざ黄祖舜を訪ねた。黄祖舜は、事件の審理は事実に基づいたものでなければならず、他人の言い分を聞いてはならず、事実に基づいて真実を求めてこそ、事件の真相を明らかにすることができると教えてくれた。傅自得は、黄祖舜の助言を受け、結局趙令衿の罪を決めなかった。

黄祖舜は政治的にも多くの功績を残した。例えば、道徳的な人格が重視されないことに対し、彼は朝廷に上書し、郷薦制度を導入し、科挙の補足として、何層もの推薦審査の方法を通じて、国に素行も学識も非常に優れた人をより多く推薦できるようにすることを提案した。彼の提案は宋高宗の賛同を得て実施された。紹興二十九年(1159)、秦桧が死んだ後、宋高宗は再び黄祖舜を副宰相に起用した。宋高宗は最近病死した秦檜の息子である秦熺に「太傅」の官位を下賜することを提案したが、黄祖舜は秦桧父子が国に災いを及ぼし、人民の恨みが沸き立っているので人心を失うことになると厳粛に指摘した。結局、高宗は命令を撤回した。

福清理学の四大家

福建省の文化は、宋代に一度最盛期を迎え、全国の刻書業の中心となった建陽、崇安(今の福建武夷山)と、海上シルクロードの発祥地の一つである福州、泉州は、福建文化の興隆のために堅実な物質的基礎と現実的条件を打ち立てた。

宋代は朱子学が盛んな時代で、朱子学の中心である福建省は北宋の有名な理学者である程頤、程顥兄弟の直伝弟子であり、程門四家の一人である楊時の故郷であり、楊門の弟子である劉子翬、羅叢彦、李侗の故郷でもあった。理学の集大成者である朱熹は楊時、劉子翬、李侗などから学んでおり、建陽、崇安のあたりで生活し講義していた。福清は福州と泉州の間に位置し、理学輻射の区域であるだけでなく、開放革新の海絲文化の中心でもある。北宋末期から南宋以来、福清にはいくつかの有名な理学者が誕生した。その中で最も有名なのは「福清理学の四大家」と称賛された王苹、林亦之、陳藻、林希逸である。

王苹(1082—1153)、字を信伯とし、福清龍山(今の福清市)の出身である。彼は程顥の思想の影響を受け、主に発明者の内なる良心に主眼を置き、南宋の陸九淵心学派、ひいては明代の王陽明思想の先駆者であった。王苹と陳藻、林亦之、林希逸は積極的に理学思想を広めただけでなく、地方の民風道徳文化の建設を推進し、福清の社会文化の繁栄にかけがえのない多大な貢献をした。

福清で生まれた王苹は父について平江(今江蘇蘇州)に移り住み、河南省洛陽で程頤に師事し、程頤の愛弟子となった。南宋紹興四年(1134)十月に、蘇州の守臣である孫祐によって朝廷に推薦され、宋高宗に招かれた。彼が提案した「支配者に対して道徳的で公正な心を持ち、世の中の人々の意見を聞き、個人的な好悪にとらわれずに人を使うことで、良い政治秩序が確立され、上古尭舜のような素晴らしい政治社会が実現できる」などの意見が宋高宗に高く評価され、直ちに進士と同じような学位が授けられた。その後、彼は秘書省正字兼史館の校勘などの中央文化官吏を務め、北宋の史書の編纂に参与した。しかし、しばらく在職した後、これらの役職はただ意見を述べたり、文書を写したりするだけで、自分の政治的抱負を実現できないことに気づき、彼は自ら辞職し、地方の役人に就任し、民衆に利益をもたらした。その直後、息子の王誼が文章を書いて秦桧を皮肉ったことを理由に、親子二人とも解任されることになった。罷免された後、王苹は故郷に帰り、亡くなるまで講義をして、郷民の教化に努めていた。

林亦之(1136—1185)は、福清新安里の網山村(今の福清海口町)の出身で、字を学可、号を月漁、または「網山」とした。当時の人に「網山先生」と呼ばれていた。林亦之は一生を布衣であり続け、郷に住み、読書や勉強をし、蒲田の有名な理学者林光朝に従って、紅泉書院で学んでいた。林光朝の死後、蒲田の郷紳らは満場一致で林亦之を書院長として推挙し、引き続き講義を続け、理学思想を伝播した。南宋の名臣である趙汝愚は生涯理学を褒賞し、福州の知州を担当していた間に、林亦之の学問を聞き、熱心に福州の東井書堂に招いて講義することを懇請し、林亦之を師とした。淳熙十二年(1185)、再び中央に戻った趙汝愚は朝廷に林亦之の重用を薦めたが、残念ながら林亦之は同年五十歳で亡くなった。

陳藻は、字を元潔、号を楽軒とし、林亦之の弟子である。本籍は長楽で、後に福清海口の横塘に住んでいた。受験に何度も失敗し、福清の海口鎮に行って林亦之に師事することになった。陳藻の学術思想は、林亦之の精髄を深く得ている。林亦之の没後、師の後を継いで紅泉書院の教師として活躍した。陳藻は普段、「家では妻に耕したり布を織ったりするように、書院に出ては生徒たちに詠唱するように勧め、孔子の教えだけに心を向け、学者たちは彼を楽軒先生と呼んだ」。景定年間、陳藻の門人である林希逸がその賢を推薦し、迪功郎を贈り、「文元」の諡号を与えた。(饒安鼎、1989)

林希逸(1193—1271)は、字を肅翁、号を竹渓、または鬳齋とした。蘇田里(今の福清市漁渓鎮蘇田村)の出身である。南宋の端平二年(1235)、省試で1位、殿試では甲科4位の成績で進士に登第した。林希逸は少年の頃に陳藻に師事して儒学を学び、その後また江淮一帯を遊歴し、あらゆる学派の良いところを取り入れ、次第に幅広い学識を持つようになった。これは彼が後に儒、釈、道の三教を学び、三教の統合が提唱できる基礎を築いた。林亦之らと違って、林希逸は進士に合格した後、長い間各級の官職を務め、生涯の官途は順調で、しかも長期にわたって皇帝の機要秘書を務めた。林希逸は恐れずに政見を率直に述べ、何度も意見書を差し出し、政績において優れた成果をあげた。

学術文化の面では、林希逸は主に平易な言葉を使い、儒教や道家の古典的な文献を注釈したり講義したりし、儒道、三教を融合する方式を採用し、儒家と道家の修身養性の基本観念を釈明し、すでに成熟した宋代の理学、特に修養工夫を通俗化、日常化させ、当時の南宋の中下層社会が理学を受け入れ、文化を高めることに独特な貢献をし、福清籍の「南宋最後の理学者」と呼ばれる。

宋代の福清文化の典型的な代表である林希逸は、福建東南文化に大きな影響を与えただけでなく、盛んな海上シルクロードの往来交流と福清の港湾開放都市としての利便性によって、林希逸の思想は海上シルクロード商路とともに日本社会にも大きな影響を与えた。

林希逸画像,林秋明供稿

林希逸像 (林秋明提供)

林希逸の主な著作に『老子鬳齋口義』、『列子鬳齋口義』、『荘子鬳齋口義』があり、遅くとも日本の室町時代(1336—1573)前期、つまり中国の元代中後期に、これらはすでに日本の僧侶によって日本に伝来し、復刻出版された。鎌倉時代から戦国時代にかけて、日本の社会文化は次第に仏学を中心とするものから、儒学を中心とするものへと転換し、朱子学の伝承者である林希逸は、道教思想で儒学を理解し、仏典を引用して儒学の基本精神を説いたが、これは仏教思想が依然として盛んな日本社会において受け入れやすく、また仏道から儒学への学習にも発展し、江戸時代以降の朱子学思想の伝来に社会的条件を与えた。(王晩霞、2018)明代から清へ変わる中、隠元が渡来し、仏を学ぶには必ず儒教に通じることを強調したのは、まさにこの時期の文化交流モデルのある種の延長である。両者にはいずれも福清文化の中で、深い伝統文化の基礎を持ちながら、包容的で多元的、尚且つ開放的な特質を併せ持っているという特徴が顕著に表れていた。

特筆すべき点として、林希逸の後裔の中に、即非如一禅師がいて、まさに隠元隆琦禅師の最も重要な弟子の一人であり、隠元隆琦、木庵性瑫と共に「黄檗三筆」と呼ばれ、日本の江戸時代の社会に大きな影響を与えていた。

林希逸から即非如一まで、隠元と黄檗文化が中日文化交流の中で重要な影響を与えたのは、福清の奥深い文化遺産に立脚し、悠久の伝統と一脈相承の歴史的因縁を持っているからであることが明らかになった。黄檗文化は、地方的な宗教文化ではなく、長い歴史を持つ中華主流文化の一部であり、同時に海上シルクロードの重要な港町である福清の融合、発揚、伝播によって、新たな内包特徴のある文人文化、華僑文化、海絲文化が形成された。

閩中十才子の筆頭林鴻

林鴻(1338—?)、字は子羽、福清城関横街(今の福清一払街)の出身だった。林鴻は子供の時からとても聡明で、本を読んだ後も忘れず、明代の開国第一の詩人と称賛された。

林鴻の若い頃は病弱で、5歳の時に喘息を患って危うく死ぬところであった。福清福山寺に喘息を治療できる僧侶がいると聞いた両親は、林鴻を福山寺に送って僧侶に身を預けた。その僧侶は林鴻の体の調子を整える手助けをすると同時に、読書、楽譜、剣術の練習、野菜の栽培、草の栽培を教えた。10年間を経て、僧侶の丹念な保養の下で、林鴻は体の調子がだんだん良くなり、喘息もよくなっただけでなく、詩書を熟読し、文才に優れ、「才子」と誉められた。

明洪武年間、林鴻は才能が優れていたため、進士の試験を飛び越え、官府に次々と報告され、明太祖に直接殿試を受けるようにと推薦された。林鴻はすぐに大殿に詩を二首作り、その中に「堤柳欲眠鴬喚起、宮花乍落鳥銜来」という名句があり、広く伝わり、一時は京城に名を馳せた。朱元璋は非常に気に入り、大声で「これこそ、真の我が明朝の高才である」と誉めた。そこで直接詔を下し林鴻を故郷の将楽県(現在の福建省三明市将楽県)に派遣して訓導を担当させた。

七年後、わずか40歳の林鴻は再び北京に召還され、五位下の礼部官に就任した。しかし、林鴻は当時勃興した「文字獄」に巻き込まれることを恐れ、農家の税負担軽減を求める意見が受け入れられなかったため、三度も辞表を出し、故郷に帰って両親に仕えたいと願い出た。朱元璋は林鴻の去る決意が固まったのを見て、ようやく許可した。

林鴻は故郷の福清に戻った後、再び福山寺に住み込み、五年間にわたって学問に没頭した。宋代の郷賢鄭侠の高潔な品格に敬意を表し、林鴻と福州付近の文人が発起して「一払詩社」を設立し、侯官の王葆、唐泰、閩県の鄭定、周玄、永福の王偁、長楽の高棅、王恭、陳亮、及び将楽の黄玄と一緒に遊山し、互いに歌を歌い、「閩中十大才子」と呼ばれている。周辺の名士も名を慕ってやって来た。林鴻の名声が次第に八閩大地に広まるにつれ、一つの全国的な影響力を持つ学詩派である「閩派」が形成された。林鴻も後世の文学理論家に明代の開国第一宗派である「閩派」の創始者、指導者と呼ばれ、彼の作品は明代の詩歌の唐音の模範とされている。

林鴻は詩壇で著しい成果を上げただけでなく、張紅橋とのロマンチックで悲しいラブストーリーも後世に伝わっている。張紅橋は閩県の出身で、家は紅橋の近くにあったため、紅橋と自号した。張紅2橋は才色兼備であるが、とても高潔で、両親に「詩をもって夫を取り、李白のような才能のある大詩人と結婚したい」と言っていた。林鴻は遊学して親友の王偁を訪ねたところ、偶然張紅橋に出会った。張紅橋の要求を知ってから、詩を一首投げかけた。二人は意気投合し、作風もぴったりと合い、詩のとりもちですぐに恋に落ちた。二人の詩の中にはいつも相手の名前が綴られている。張家の同意を得た後、林鴻は張紅橋の家に住み、二人の仲はますます良くなった。翌年、林鴻は南京へ遊学に行き、二人は詩で連絡を取り合ったが、張紅橋は林鴻の詩の意味を誤解し、彼女に対する感情はただのごまかしだと思ってしまい、憂鬱になって病気になり、間もなく死んでしまった。林鴻は福建省に戻った後、紅橋が死んだ悲報を聞き、悲しみのあまり大声で号泣した。それに不遇に遭ったため、林鴻はすっかり意気消沈し、一日中『心経』を書き写して時間をつぶしていた。写し終わると焼却し、焼かれた灰はなんと籠いっぱいになっていた。

林鴻と「閩中詩派」の創作は、明代中後期に日増しに台頭し、明清時代に全盛だった江南文化と密接な関係がある。彼らは江南文化、明朝の詩文発展の先駆となっただけでなく、時代を切り開き、「閩中詩派」の各才人は、更に同時代及びその後の江南文人とは、遠いあるいは近い交遊師友関係を持っていた。

これらの人物の繋がりや物語には、福清とその周辺の思想文化が反映され、宋元明時代以来の思想史と文化史の重要な構成部分であり、さらに重要なのは、このような関連がその後、ますます際立って鮮明になっていくことである。われわれは、黄檗文化の諸名人とその文化的成果を見ることができるが、それはまさに明清の江南文化、遺民文化の一部であり、黄檗文化が中国文化の核心精神の一部として伝承されてきたことを示している。 fmx1BoILWodJjwTJ78XqQY56hT4WfOx8L962ogkaOc1O127Ef+OqSmqCPICIZw1m

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