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第三節
『現代日本小説集』の全体像

『現代日本小説集』の巻頭に、1922年5月20日の日付の「序」がある。周作人は、「日本小説」を翻訳紹介する目的とその選択基準を次のように述べている。

日本の小説は、二十世 に於いて驚異すべき发達をし、国民的文学の精華となったばかりでなく、幾多の有名な著作は又、世界的価値を持つようになった。欧州現代の文学と比較するに足る位である。唯文字の関係によって日本の小説を翻訳することは、欧州人には甚だ容易でない。その為めにあまり世界にしられずにいる。しかし中国は日本と種々の関係があり、中国人は日本を知る必要もあれば亦、日本を知る便利もある。現在、この創始の、しかし不完備な小集を編むことができたのは東アジアで生まれ育った機会を利用するにすぎない。

今簡単に説明を加えておきたいのは小説を選択する基準である。私達の目的は近代の日本小説を紹介することである。この集の中にある15名の作者は、国木田独步と夏目漱石を除き、皆現存の小説家である。文壇からこれらの15人を選択し、さらに彼らの著作の中から30編を選択したのはどういう基準を用いたのかというと、主に個人的趣味であると言わざるをえない。しかし、全くの客観的な批評は不可能だと考えるけれども、狭い主観でむやみに取捨することはしていない。我々の方法は、すでに定評ある人と著作の中から、自分が理解し感受できる人を選んで、本集に收録した。よって範囲がわずかに狭いかもしれないが、この狭い範囲内の人および作品にはいずれも永遠の価値がある。 [2] (1~2頁)

この序文において、日本近代文学の価値は高く評価されている。日本と中国は、ヨーロッパと違い、同じく漢字文化圏に属するという理由で漢字の使用が共通する。それゆえ、日本の小説を翻訳紹介する必要性とそれを実現する可能性が中国の方にある、と指摘している。

このように、翻訳者である魯迅と周作人が、日本近代小説に对する関心と紹介の使命感から、明治末から大正にかけての文壇に 体的な視点を持っていたことは、十分注目すべきである。

(一)出版状况と背景

まず、『現代日本小説集』の出版刊行元となった上海の商務印書館について述べておきたい。

商務印書館は1897年2月11日にアメリカ長老会の印刷所である美華書館に勤務していた夏瑞芳、鮑咸恩、鮑咸昌、高鳳池が長老会の牧師費啓鴻の援助で設立した出版社である。初期には商業簿記を主に取り扱っていたので「商務」と名前が付いている。

1902年、蔡元培(1868~1940)は、正式に印刷所を開設し、編訳所および发行所の初代の所長となった。張元済、高鳳岐、夏曽佑が前後して加入し、1903年に中国の最初の小学校の教科書『最新教科書』を出版した。とりわけ、厳復訳『群学肄言』や林 等訳『伊索寓言』(イソップ寓話)を出したことで知られていた。1904年から1914年にわたって、『東方雑誌』『教育雑誌』『小説月報』『少年雑誌』などの雑誌を創刊し、1915年に新式の辞書『辞源』の第1部を出版し、各層の需要を満たした。1921年、胡適の推薦で王雲五が所長に就任した。1924年、東方图書館を設立した。1932年1月に上海事変が起きると、空襲で商務印書館と東方图書館が焼かれた。その後、一部は徐々に回復し、中華人民共和国が成立後の1954年に上海から北京に移って、「漢訳世界学術名著叢書」などの西欧の学術の名著を重ねて出版する。

次に、周氏兄弟と商務印書館との関わりに注目したい。魯迅の楊寄雲への手纸(1934年5月15日)における回想によれば、彼が商務印書館とはじめて接触したのは日本留学期のことであった。まだ留学生であった彼は、空想科学小説『北極旅行』を中国語に翻訳し、同じく日本に留学した蒋智由(1865~1929)の推薦によって1906年に商務印書館に寄稿した。しかしながら、彼は文語と白話文の混淆体を採用したことで、訳し方がでたらめだと非難された。 局、刊行は拒否されることになった。このことは日本で自ら翻訳を模索していた魯迅に挫折感を与えたに違いない。

この商務印書館とのはじめてのやりとりは不愉快な体験であったかもしれないが、周氏兄弟と中国国内の出版業界との最初の接触であったので、注目に値する。

翌年の1907年、周氏兄弟の共同訳『红星佚史』(英ハッガード·アンドルーラング著)はようやく商務印書館から出版された。『红星佚史』の原作は The World's Desire という題名で、古代ギリシア神話を題材にしたものである。当時ハッガードの神話怪奇、冒险小説が林 の翻訳を通して中国を風靡していたからであったのか、『红星佚史』の发行ができた。これが商務印書館が出版した最初の周氏兄弟の訳著となった。

帰国後の1911年、魯迅は文語で最初の小説となる「懐旧」を創作し、商務印書館が发行した1913年4月の『小説月報』(第4巻第1号)に发表した。その後、文学革命が始まった1910年代の後半から、『小説月報』を中心に、『東方雑誌』『婦女雑誌』などの商務印書館发行の雑誌に周氏兄弟は数多くの小説、評論、翻訳作品を发表した。周作人は、1917年9月以降、北京大学の教授として欧州文学史とギリシア·ローマ文学史を担当していた。授業のために作成した講義プリントを1冊にまとめて1918年10月に刊行したが、これが『欧州文学史』である。ギリシア文学史、ローマ文学史、中世より18世 までの欧州文学史の3部からなり、文語文で横書きである。この『欧州文学史』は、同様に商務印書館より刊行されたのである。

その後、1922年5月に「世界叢書」と冠する『現代小説訳叢』が出版刊行されたが、これは注目に値する。『現代小説訳叢』の第1集は周樹人、周作人、周建人の三人兄弟が共訳した世界文学短編集であり、チリコフの「田舎町」や「連翹」などの30編の作品を收めている。1923年6月に出版した『現代日本小説集』も商務印書館による「世界叢書」の企画内にある。

『現代日本小説集』に收める30編の翻訳のなかで、半分近いものが、最初に、『新青年』『晨報』『小説月報』『東方雑誌』といった中国の新聞や雑誌に发表されていた。『小説月報』と『東方雑誌』とも商務印書館からの刊行物である。『新青年』と『晨報』は、当時の最も代表的な文芸誌と新聞纸であり、『現代日本小説集』の産出に重要な役割を果たした。

『新青年』は、近代中国史上で代表的な作家や学者、政治家を多く生み出した中国の新文化運動において中心的な役割を担った雑誌であり、1910年代の中国の思想界をリードした。とりわけ、『新青年』に拠る北京大学の教授たちは活发に数多くの文章を寄稿し、言語·文学の改革に大きな柱となった。『新青年』が发刊された時のスローガンは、「デモクラシーとサイエンス」(德先生與賽先生)となっていた。つまり「民主と科学」という基本的な立場が表明されている。

創刊者である陳独秀(1879~1942)は、中国の著名な思想家·政治家であり、字は仲甫、安徽省懐寧の出身である。日本に留学し、東京で 成した団体「中国同盟会」に参加した。帰国した後、1911年の辛亥革命に参加したが、一時、日本に亡命し、1915年上海に帰って『新青年』の前身である『青年雑誌』を創刊し、1916年に、北京大学教授となった。その後、編集部は北京に置かれたが、发行所は 始上海にあった。1918年に『毎週評論』を創刊して新文化を提唱し、マルクス主義を宣传した。後に、上海で共産主義グループを组织し、1921年7月に中国共産党が成立すると、五四運動時期におけるその名声により党の 書記に選出されたが、1929年にトロツキストとして除名された。著書に『独秀文存』などがある。

『新青年』は当初、袁世凱政権下において刊行されたため、政局につながる問題は扱わないことを建前としていた。しかし1919年5月には、マルクス主義の特集を组み、中国にはじめての体系的なマルクス主義の紹介を行った。その主な執筆者は、李大釗であった。

李大釗(1889~1927)は近代中国のマルクス主義者としてよく知られる人物である。字は守常で、河北省楽亭県の出身である。1913年に、北洋法政専門学校を卒業し、翌年、日本の早稲田大学に留学した。中国人留学生を组织して袁世凱の帝制運動と日本の21ヵ条要求に反对し、また社会主義思想の洗礼をうけ、帰国した。1917年、北京大学图書館長となり、陳独秀とともに新文化運動の指導を担い、『新青年』のほかに、『毎週評論』の編集にも参与し、中国におけるマルクス主義の啓蒙活動に尽力した。

特に注目されるのは、文学革命に最も重要な役割を担った「文学改良芻議」が『新青年』に掲載されたことである。「文学改良芻議」を草した胡適(1891~1962)は、文学者·哲学者で、字は適之である。アメリカの哲学者ジョン·デューイのもとでプラグマティズムを学んだ彼は、アメリカに留学中の1917年1月に、『新青年』に「文学改良芻議」という文章を寄せ、口語文学を中心とする文学改革を提案した。この提案をベースとした白話文運動(口語運動)が展開され、ともに、旧文化·旧道徳を打破する文学改革として実を ぶこととなった。

1918年に、魯迅が最初に白話文で書いた小説「狂人日記」が掲載されたのもこの『新青年』であった。彼は1922年までに、「狂人日記」を含めたおよそ50編の文章をこの雑誌に发表した。

このように、『新青年』は進步的知識人が多く集まり、大学の機関誌的性格をもち、文学革命に大きな役割を果たした。しかし、1921年になると、陳独秀·李大釗と胡適との間で、政治関係の記事を掲載するかどうかで意見の对立が起き、1922年7月で休刊、事実上の解散という 末を迎えた。

このため、1921年から周氏兄弟の翻訳原稿の多くは『晨報』に发表されるようになった。『晨報』の主要な編集者である孫伏園(1894~1966)は、本名福源、字養泉、ペンネームに伏盧、柏生、松年などがある。浙江紹興の出身で、魯迅の学生であった。新文化運動期の文学団体である北京の新潮社に参加し、幹事を担当した。雑誌『新潮』や『国民公報』を編集し、1920年の文学研究会の創立にも積極的に関与していた。1921年に北京大学国文科を卒業した後、『晨報副鐫』の編集長として活躍し、特に魯迅の創作と翻訳との发表を数多く彼が手がけた。『現代日本小説集』に收録されている翻訳作品の多くがはじめて发表されたのも、この『晨報』であった。

一方、周氏兄弟が『現代日本小説集』の訳文の底本としたのはいかなる書物なのかを追究すると、大正期の文芸叢書の存在が浮上してきた。前掲の表2と関連して、次に、底本とされたものの一部を列挙していく。

*洛陽堂の「白樺叢書」

3 志賀直哉 『留女』(大正2年1月1日)「清兵衛と瓢箪」

*春陽堂の「新興文芸叢書」

8 芥川龍之介『鼻』(大正7年7月8日)「鼻」「羅生門」

11 菊池宽『恩を返す話』(大正7年8月15日)「ある敵打の話」

*新潮社の「新進作家叢書」

6 長与善郎 『 婚の前』 (大正6年9月13日)「亡き姉に」

15 菊池宽 『無名作家の日記』(大正7年11月20日)「三浦右衛門の最後」

16 佐藤春夫 『お绢とその兄弟』(大正8年2月18日)「雉子の炙肉」

17 江口渙 『赤い矢帆』 (大正8年6月23日)「峡谷の夜」

このリストから、さらに日本の大正期文芸出版の状况を視野に入れてみると、「叢書」という出版物の存在に注目すべきである。『広辞苑』の「そうしょ」(叢書)を引いてみると、とある。

①種々の書物を集めて大きくまとめたもの。

②(「双書」とも書く)一定の形式に従って继 して刊行される出版物。シリーズ。

『現代日本小説集』の底本とされた叢書は、②の意味を持つに違いない。

大正期の文芸叢書については、红野敏郎 によって詳 な考察·整理がなされている。红野の主張をまとめると、日露戦争後、とくに明治末期から大正時代に入ると、明治30年代に極めて少なかった叢書か盛んに出版されるようになつた。大正期の文芸出版においては、明治期よりの老舗であった春陽堂の後退現象が現れはじめ、それにかわって新潮社の躍進が見られた。そして、新潮社はさらに時代を見すえてのさまざまな「叢書」を企画し、国内、国外ともに、その「叢書」によって文芸出版社のイメージをまったき姿で定着していったのである。

もっとも注目しなくてはならないのは、新潮社が企画し大正6年から14年にわたって推進した「新進作家叢書」(全45冊)である。この叢書は大正文学の特色を顕著に示すものであった。また新潮社は、文芸雑誌『新潮』も充実させつつ、文壇のあらゆる状况を传達し、読者の投稿をも含めた啓蒙的文芸誌『文章倶楽部』を創刊する一方で、さらに当時のトルストイブームに拍車をかけるようなかたちで、世界でも珍しい個人作家雑誌『トルストイ研究』も出すという実绩があった。それだからこそ「新進作家叢書」という企画の実行が成りたったと考えられる。

博文館や春陽堂などの明治期以来の出版社に重なりあうようなかたちで、新潮社は徐々に進出、文芸出版の老舗であった春陽堂をついに追い越して行った。この大正期に刊行された、多様にして多彩な「叢書」から、その 緯が明白に見える。新潮社の「新進作家叢書」は、今日ではその時代の動向を把握する最も質の高い「叢書」となっている。この叢書の特色のひとつは、大正文壇の中軸的な作家たちを吸收しただけでなく、佐藤春夫などの昭和文学へのつながりを持つ人びとをもいちはやくかかえ込んだという点にある。

この新潮社の「新進作家叢書」に呼応するものといえば、春陽堂では「新興文芸叢書」を挙げることができる。芥川龍之介の『鼻』に收められた「羅生門」の今日流布している完全な形は、この「新興文芸叢書」においてはじめて世に出たのである。とくに末尾の「外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである」の次の「下人の行方は、誰も知らない」という一句は、このシリーズではじめて定着した。

この「新進」や「新興」といった言葉通り、その時代の匂いが実に濃厚に传わって来る。大正時代には、まだ個人全集がほとんど刊行されていなかったが、魯迅と周作人の蔵書書目からわかるように、周氏兄弟は新潮社をはじめ、様々な出版社より企画·刊行された大正期日本の叢書をかなり広く輸入した。これらの出版物を通して、大正期における日本文芸思潮と小説の動向をキャッチした。周氏兄弟のこうした叢書から吸收した養分は、『現代日本小説集』の作品選択と底本確定の源として実を ぶこととなった。

(二)訳者の发言の場

『現代日本小説集』には「訳者付記」と「作者に関する説明」が收められておリ、このことによって訳者の发言の場が形成されている。特に注目すべきは、訳文が最初に新聞や雑誌に掲載された時に書かれた、訳者の原作に对する見解を記した「訳者付記」が加えられている点である。その内容の一部は、翻訳集の附録としてある。

この翻訳集の巻末に、は「作者に関する説明」もある。小川利康は、「作者に関する説明」を周作人の手によるものと推定している。 [3] 「作者に関する説明」のその特徴の一つとしては、同時代の日本の作家の評論を取り入れていたことである。例えば、谷崎潤一郎と芥川龍之介の佐藤春夫についての評論や、長与善郎、武者小路実篤による千家元麿についての評論、江馬修の国木田独步についての評論などが收められている。これらをわざわざとりあげた訳者は、日本文壇評論界の動向に関心を払っており、当時の文芸雑誌に掲載された日本の作家や評論家による同時代の作家論を重視する姿勢が窺える。しかも、これらの定評にとどまらず、意識的に自らの理解をも語り、自論を展開させていることも、「作者に関する説明」から読み取れる。

さらに、充分に創作態度が明らかになるように、原作者の別の作品をもわざわざ訳し、作者に関する紹介の部分に付け加えていることも一つの特徴となっている。例えば、森鷗外の紹介文において、彼の略歴に触れた上で、用意周到に「杯」の一部分が訳出されている。このような補足的抄訳のケースも見られる。

有島武郎の項目においては、「彼の創作方針とその態度は、『著作集』第11輯の「四つの事」の中で、およそ次のように語られている」とし、「私は第一淋しいから創作をします。(中略)私はまた、愛するが故に創作をします。(中略)私は又愛したいが故に創作をします。(中略)私はまた私自身の生活を鞭たんが為めに創作をします」 という「四つの事」を訳出している。

以上考察してきたように、およそ20ページに近いこれらの紹介·説明文は、読者にとっては訳出された作品の一種の補充になっており、ある意味で編訳者の手になる研究ノートであるともいえる。

(三)短編小説について

すでに述べたように、この『現代日本小説集』に收録された30篇の作品はいずれも短編である。短編小説に对して長編小説は、その分量が特に多く、構造的に長大なものを指す。短編小説といえば、広大な長編小説に比べ、緊密な構成と簡潔な文体という特徴を持つというイメージが強い。長編小説が多面性を再現しようとするのに对して、短編小説は、ある視角によって現実の一断面のみを表現する傾向がある。

よく知られているように、日本では、江戸時代に仮名草子や読本などがあったが、小説が誕生したのは明治時代以降である。Novelの訳語に「小説」という、江戸時代に曲亭馬琴たちを中心にして自作を表現するために使われていた中国由来の語をあて、従来の勧善懲悪をしりぞけ、人情を映す文学作品として定義したのは坪内逍遙の『小説神髄』(1885~1886年)である。その文学理論を実践したのが、坪内逍遥の『当世書生気質』(1885~1886年)であった。

中国の新文化運動期の文芸評論は、重要な内容として近代小説と传 的小説の違いを説いていた。以前の旧小説の形式を脱しようとする近代小説とは、どのような小説かということを説明しなければならない状况にあった。

1918年5月の『新青年』第4巻5号に、胡適は「短編小説を論ず」(「論短編小説」)という評論を发表した。この評論のなかでは、短編小説が近代小説の代名詞として用いられているが、実際のところは短い小説が必ずしも短編小説というわけではないというところから胡適は説きはじめた。

彼は、簡潔かつ多彩な短編小説を創作することを積極的に提唱し、次のように短編小説の特徴を挙げている。

(一)「事実のなかの最も精彩がある一段あるいは一方面」

例えば、大樹の樹身を鋸で切ると、植物学がわかる人はこの樹の「横断面」を見て、その「年輪」を数えれば、この樹の樹齢を知ることができる。一人の生活、一国の歴史、一つの社会の変遷は、全て一つの「 割面」と無数の「横断面」がある。 割面からみると、首から尾まで見なければならないからこそ全体を見ることができる。横断面の一段を裁断して、それが肝要な部分であれば、この「横断面」はこの人あるいはこの国、この社会を代表することができる。このように全体を代表できる部分は、いわゆる「最も精彩がある」部分である。例えば、西洋の写真技術が发明される以前、「側面影 」(silhouette)という種のものがあり(この影 は一時的に世を風靡したし、今写真技術があってもやる人が尚いる)、纸で人の側面を切り取れば、これが誰なのかがわかったものである。このように全形を代表することのできる一面は、私のいう「最も精彩がある」面である。もし「最も精彩がある」部分でなければ、一段で全体を代表することは決してできず、一面で全形を代表することはできない。

ここでは、「最も精彩がある」という特徴が、植物学と写真技術の例を採り上げながら解釈されている。「最も精彩がある一段あるいは一方面」というのは具体的な描写が全体を代表しているとする考えであろう。しかも具体的な描写はただ単に事実を直接的に述べるのではなく、それを最もうまく表現でき、適切に传えうる具体的な一場面を通して行うのが「小説」というものである、と述べている。つまり「写実」とは、事実を書くことなのではなく、なんらかの思想を背景にした「最も精彩がある」部分を描くことなのである。

(二)「最も 済的な文学手段」

済」という二字を形容するには、宋玉の言葉を借用するのが最もよい。「一分を増やすと長すぎ、一分を減らすと短すぎる。粉をつけると白すぎ、朱をつけると赤すぎる。」増減すべきではなく、塗り飾るべきでもなく、何処でも度合いがよいのはまさに「 済」という二字に値する。故に、およそ伸ばして章回小説に書き换えられる短編は、本当の「短編小説」ではない。

済」については、楚の宋玉の「登徒子好色賦」の中から引いた美人を描写する言葉で解釈されている。小説に適用されると、小説のテーマを効率よく传えるための配置ということになり、無駄のない配置で並べなくてはならないということであろう。胡適は、このような無駄のない小説の長さを増減なしで「度合いがよい」と指摘している。この「度合いがよい」とは、小説のテーマをもっとも適切に传えるための長さである。ちなみに、「章回小説」とは、中国の传 的小説で、回を分けた構成をとるものである。

注目すべきなのは、この胡適の短編小説に関する評論が掲載された『新青年』の同号に、魯迅が創作した「狂人日記」も載せられていることである。周知のように、この作品は、「人が人を食う」という妄想男の手記という形式を用いて、儒教に基づく传 的制度の実情を指摘し、それを厳しく批判した作品である。中国近代小説の始原的作品となった「狂人日記」は、中国における白話文による最初の短編小説として、新たな文学時代の幕開けを告げるものであった。一方、中国の传 的な「章回小説」に見られる単調な形式を打ち破るようにもなった。こうした胡適による理論面の主張と魯迅の実践的な創作を通して、中国に短編小説というジャンルの移入に熱心だった近代知識人の態度が示されている。

1920年3月20日という日付で、1921年上海群益が出版した新版『域外小説集』に載せた序文のなかで、魯迅は旧版が发行された頃の体験を回想しつつ、短編小説の問題について次のように述べている。

『域外小説集』が初めて出た時、これを読んだ人はしばしば首を揺って「さあ始まったと思うと、もう わりだ」と言っていた。当時、短篇小説はまだ少なく、読書人は百回、二百回の章回物を読み慣れていたので、短篇などはなきに等しかったのである。いまは当時とは異なっており、心配する必要はない。私にとって忘れなれないことだが、ある雑誌がシェンキェヴィッチの『音楽師ヤンコ』を載せたのを見たことがあり、それは私の翻訳と数字も異ならぬというのに、題名の上に「滑稽小説」と角書を加えていたのである。このことはいまでも私に苦痛をともなったある虚しさを覚えさせるのである。しかし、人の心が世界中で、まことにこれほどまで食い違っていようとは信じていない。 [4]

魯迅が言及した「当時、短篇小説はまだ少なく、読書人は百回、二百回の章回物を読み慣れていた」というところから、「短編小説」というジャンル自体が当時の中国人読者に受け入れられなかったことがわかる。調査によれば、『域外小説集』の初版が刊行された時、売れ行きはあまりにも悪く、2冊で合わせて1500部を刷ったが、41部しか売れなかったという。この 果には、いろいろな原因があったかもしれないが、当時の中国の読者にとって、「短編小説」がまだ違和感のあるものであったたあと考えられる。ようやく中国の新文学が進展した1921年、『域外小説集』が再版された。これは前述した胡適と魯迅らが積極的に短編小説の創作を推進したことと深くかかわっていると思われる。

このように、中国近代文学形成の過程のなかで、周氏兄弟は日本近代文学を翻訳紹介する際に、長編小説の移入を意图せず、短編小説のみを重視して、『現代日本小説集』を刊行した。この日本の短編小説の翻訳集が誕生したことは無論偶然ではなく、一部の先進的な知識人が新しい表現スタイルを模索しようとした 果であるといえるであろう。

(四)翻訳文の彫琢

具体的な翻訳文体について、この『現代日本小説集』に見られる特徴的と言ってよい部分を検討したい。

まず、日本語固有の語彙の場合は、一般化することをできるだけ避けて、異質感を残したまま中国語の文脈に组み入れていくことを望む訳者の態度が翻訳文に表れている。

さらに、必要に応じて、注を加えて日本語語彙の本来の意味を解釈する場合もある。このことについて、北京で中国語訳文を目にした原作者の芥川龍之介の評価を引用すると、「翻訳は、僕自身の作品に徴すれば、中々正確に訳してある。その上、地名、官名、道具の名等には、ちやんと註釈をほどこしてある」 という。

次はその一例である。

らし やう もん が、 すざ おお にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする いち がさ や揉烏帽子 が、もう二三 にん はありそうなものである。 [5]

この「羅生門」にある一文が次のように訳出されている。

這羅生門既然在朱雀大路上,則是這男子之外, 還該有兩三個避雨的 市女笠和揉烏帽子 (一)的。

(註一) 市女笠 是市上的女人或商女所戴的笠子。 烏帽子 是男人的冠,若不用硬漆,質地較為柔軟的,便稱爲 揉烏帽子 。(319頁)

ここで、翻訳者は「市女笠」と「揉烏帽子」という日本の衣装の名称をそのまま中国語にある漢字で表示しているのみならず、訳注を施し、読者に意味の解釈を行っている。

次に、翻訳者が形式上の文の長短や、動詞の用法や句読法までできるだけ忠実に再現しようとしていたのも一つの特徴である。ここで、「羅生門」の冒頭の一文を次に引いて、原文と訳文の順で例示してみる。

或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で 雨やみを待つてゐた [6]

是一日傍晚的事。有一個家將,在羅生門下 待著雨住 。(319頁)

前に引用した例文に「避雨」という言葉も見られるように、ここの「雨やみを待つてゐた」という行動を中国語で「避雨」(雨を避ける)と表現するのが一般的である。しかし、翻訳者は形式上の文の長さを保留し、日本語の動詞の漢字表現を忠実に中国語に移植する意图を持つために、あえて違和感を残したまま中国語では使わない表現である「待著雨住」と翻訳している。

また、明治時代から、文芸思潮や心理表現を反映する外来語が 々出現した。これらの日本語原文におけるカタカナ表記にされていた西洋外来語を翻訳する際には、顕在する日本語表現よりむしろ日本語文脈の背後に潜在する元の西洋語を遡って、そのまま訳文に入れ込んでいる。これは一つの顕著な特徴である。

中国語訳では、日本語原文の該当箇所は西洋語のアルファベットに戻され、さらに括弧を用いた形式で、意味を表す中国語の漢字表記が挿入されている。そうしたことで、「アルファベット+(中国語漢字)」という表現自体が重層的で、重要な機能を担っている。

訳文には括弧を用いて意味を挿入する表現がしばしば見られる。次は森鷗外「あそび」における一文である。

木村は悪い意味でヂレッタントだと云はれてゐる

これに对応するは次のとおりである。

木村是被稱為壞的意義這一面的dilettant(游戲於藝術的人的)(42頁)

音声面の传達のための原語の再現だけは不十分である。一方、意味を訳出すると理解しやすくても、原文の風姿を失ってしまう恐れがある。故に、翻訳する際にもともとの「起点言語」の表現を重視するか、意味を優先するかの選択を迫られた際に、第三の道としてできる限り二重性を残すことにしたと考えられる。

今日ではほぼ定着しているが、当時の中国ではまだ普及してなかった文学者の名や西洋文芸思潮用語の翻訳にあたっても、元の西洋語を重視した態度がとられている。例えば、森鷗外「沈默の塔」の訳文において、「Wilde(淮爾特)」「Le Roman experimental(實驗的小説)」などの訳語を通じて、日本近代小説の翻訳と同時に、ヨーロッパの文芸も紹介するという訳者の模索を読み取ることができる。

こうした翻訳方法には、訳者の啓蒙的な意識が濃厚に出ている。このような翻訳手法は、それ以後の翻訳、特に1920~30年代の日本文学の翻訳に大いに影響を及ぼした。

このように、周氏兄弟にとって、こうした日本近代小説を中国語に翻訳する作業は、単に日本と中国の言語間あるいは文化間で行ったことではなく、西洋·日本·中国といった複数の言語·文化間においての流動的な営みであったといえる。

魯迅は、翻訳と中国文の構築の関係について、1930年代に行った翻訳論争の際に、自分の立場を表明していた。1930年3月、上海の『萌芽月刊』第1巻第3期に发表された魯迅の「「硬訳」と「文学の階级性」」で、次のように論じている。

日本語は欧米語とひどく「異なっている」が、彼らはしだいに新しい句法をふやして、古文にくらべて翻訳に適し、かつもとの力強い語調を損なわないものにした。初めのうちは、むろん「文法の位置関係をたど」らねばならず、一部の人々にたいへん不「愉快」を感じさせたが、たどるうちに慣れ、いまやそれを同化させて自分のものにしてしまった。中国の文法は日本の古文より不完全だが、それでもなにがしかの変遷はあった。たとえば、『史』『漢』は『書 』と異なり、現在の口語文はまた『史』『漢』と異なっている。べつにつくったばあいもある。たとえば唐代に訳された仏典や元代に訳された上論など、その当時は「文法、句法、語法」のかなりのものを無理矢理つくったわけだが、使い慣れるうちに、指でたどるまでもなく理解できるようになった。いままた「外国文」がやってきたので、やはりいろんな句を新たにつくらなくてはならない——悪くいえば、でっち上げるのである。わたしの 験では、こうして訳すほうが、数句にばらすよりもずっとよく、もとの引き缔まった語気を生かせる。ただ、新たにつくる必要があるのだから、従来の中国文には欠陥があることになろう。

考えてみれば、翻訳する際に彼らが採用した白話は、未熟な、定着していない中国文であった。つまり、当時は口語の文章体を模索していた実験的な時期にあたる。それゆえに、翻訳というのは、単に新しい内容を輸入するばかりでなく、新しい表現法を工夫することでもある。 v4je9eS1sY4051H9FRzCTMN4xdB1j35TmnTQKz3qHll/oCeGH6O8+npLoPWEuF2v

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