日清戦争以後、清朝政府は海外留学を推進し、派遣先も欧米から日本と変化しつつあった。1902年3月、魯迅は派遣留学生の一人として、南京を出发し、日本留学の旅に出た。上海で日本郵船の神戸丸に乗り换え、4月に横浜に上陸し、東京に到着した。弟周作人は4年後の1906年4月に東京に到着し、兄弟とも日本留学を成した。魯迅は1909年8月の帰国まで、7年半の歳月を日本で過ごしたのである。周作人が帰国したのは1911年のことであった。
近年、1909年4月17日の上海の中国語新聞『神州日報』に載せられた「贈書志謝」と題する新資料が发見された。中国のメディアに見られる最初の周氏兄弟に関する記述と考えられ、その内容は次の通りである。
會稽周子樹人研精文學,歐美近世名著,籀讀有年。乃與其弟作人有域外小説集之刻本。譯筆雅健,無削趾適履之嫌。凡所采錄,皆文海之新流,歐西文豪之宏著,聲價之高,蓋可知矣。昨承贈閱,特志謝於此。
この内容は、周樹人(魯迅)と周作人の文学活動および彼らが共訳した『域外小説集』を紹介するものである。「贈書志謝」という標題で示しているように、『神州日報』は、『域外小説集』が贈呈されたことに对する感謝の意を表明している。
周氏兄弟が日本のジャーナリズムで最初に紹介されたのも1909年のことであリ、明治中期の代表的な評論家である三宅雪嶺(1860~1945)が創刊がつ主筆する半月刊誌『日本及日本人』(5月1日号)においてであった。同号「文芸雑事」欄は以下の記事を掲げて、『域外小説集』の刊行を传えている。
日本などでは、歐州小説が盛んに購買される方であるが、支那人も夫れに力づけられた譯でもなからうか、靑年の間には、矢張りちよいちよい讀まれて居る、本鄕に居る周何がしと云ふ、未だ二十五六歳の支那人兄弟などは、盛んに英獨兩語の泰西作物を讀み、そして『域外小説集』と云つた三十錢ばかりの本を東京で拵へて、本國へ賣付ける計畫を立て、已に第一編は出た、勿論譯文は支那語であるが、一般淸国學生の好んで讀むのは、露國の革命的虛無的作物で、續いては獨逸、波蘭あたりのもの、單獨な佛蘭西などは、餘り持て囃されぬさうぢや。
中国の『神州日報』に載せられた「贈書志謝」と比べて、この日本のメディアが传えた『域外小説集』に関する情報はより詳 である。
こうした周氏兄弟の翻訳に对するマスメディアの報道を見てわかるように、彼らが最初に注目されはじめ、評論界に名を残したのは創作ではなく翻訳のほうであった。この意味で考えれば、周氏兄弟の文筆活動は翻訳から始まったといってもよいであろう。
まず、東京時代の魯迅は、フランス人作家ジェール·ヴェルヌ(1828~1905)の空想科学小説『月界旅行』と『海底旅行』の2冊を中国語に翻訳し、それぞれ1903年東京の進化社と1906年南京の啓新書局から刊行した。両作は1886年の井上勤訳『九七時二〇分間 月世界旅行』と1885年の三木愛華と高須墨浦訳『拍案驚奇 地底旅行』からの重訳である。また、『北極旅行』も翻訳したが、出版されるまでには至らなかった。
その後、魯迅が弟の周作人と共訳した『域外小説集』が出版されたのである。この欧米短編小説集は全2冊で、1909年3月と7月に相前後して東京神田印刷所より印刷された。「会稽周氏兄弟纂訳」及び发行人周樹人と記されており、上海広昌隆綢荘の委託販売とされた。第1冊にはロシア、ポーランド、イギリスの作品7編が收められている。「樹人」訳と記されているのはアンドレーエフの「謾」と「默」の2編であり、その他に、ポーランドのシェンキェーヴィチの「樂人揚珂」、ロシアのチェーホフの「威施」「塞外」、ガルシンの「邂逅」、イギリスのワイルドの「安樂王子」の5編は、周作人の訳である。第2冊には、フィンランド、アメリカ、フランス、ボスニア、ポーランド、ロシアの6カ国7人の作家の小説9篇が收められており、「樹人」訳と記されているのはガルシンの「四日」であり、その他は周作人の訳である。この2冊は、後の1920年に増訂改版して1冊にまとめられ、上海の群益書社より再版された。
魯迅は再版に際して、「序言」を付け加えた。次のように説明している。
『域外小説集』という書は、文辞においては朴訥であり、現代の名人による訳本には及ばない。ただ、作品の選択には慎重を期し、翻訳も原文の趣を失わぬように心がけた。異域の文学新流派は、これより始めて中華の地に传わるのである。もし俗世間にとらわれぬ卓绝した人物があれば、かならずや慄然とその心をうたれ、祖国の時代を考えて、その心声を読み、想像力の所在を推し測るにちがいない。すなわち本書は大海の一雫であるにしても、天才の思惟はまさにここに籠められている。中国の翻訳界も、これによって時代に落伍した感がなくなるであろう。 [1]
「現代の名人」とは林纾をさす。林纾(1852~1924)は外国語を解さず他人の口述によって文語体で西洋小説を翻案し、中国における西洋文学の最初の紹介者として功绩を果たした。彼が大量に手がけた翻案小説は「林訳小説」とも呼ばれている。しかしながら、20世 初頭に遂行された画期的な外国文学の翻訳といえるのは、この『域外小説集』にほかならない。なぜなら、それまでは原作を忠実に中国語に移すという試みはなされておらず、登場人物、地名をはじめとして文章の表現なども中国の旧来の小説に準じて訳されていた旧習に对して、周氏兄弟は林纾の訳と同じく文語文を用いることにしたが、翻案の方法をとらず、「原文の趣を失わぬように心がけた」という原文重視の態度を示していたからである。