本書は、近代中国という時空間において、〈作家翻訳〉がどのように行われ、いかなる意義を持ったかについて考察を行なうものである。具体的にいうと、中国人作家である魯迅(1881~1936)と弟の周作人(1885~1967)による日本近代小説の翻訳を研究对象とし、翻訳家としての立ち位置とその機能に焦点をあて、文化の受容、交流、再構築の様相を解明する。
日本留学を え、前後して帰国した魯迅と周作人は、「新文化運動」の一環として、文学の「近代化」を追求した。彼らは自ら文学創作に携わる一方で、日本文学の翻訳をも精力的に行った。この「新文化運動」は、中国の近代化にとって重大な意義を持つ文化啓蒙運動であったが、その著しい特徴は、外国文化を吸收したということである。主に欧米の文学や文化が積極的に輸入されたが、本論文で注目したいのは、日本小説の翻訳·翻案や日本語からの欧米文学の翻訳(重訳)がこの時期に盛んに行われたことである。
近代日本において翻訳文学、とりわけ明治期の〈作家翻訳〉は、既存の文学システムを書き换えていくものとして作用し、新たな文学を生み出す土壌を形成していった。日本と同様に、文化転换期を迎えた近代中国文壇においても、文学の翻訳が文学の刷新に可能性を開いたと考えられる。中国の場合には、日本文化が仲立ちになつたため、そこには日本文学と中国文学の、日本語と中国語の、出会いと葛藤と对話の様相が見られた。
翻訳という行為は、ある言語から他の言語への単 な言語的転移ではなく、様々な要素が介在する。そのなかでも翻訳者の原作に对する理解や解釈は重要である。翻訳者の読みは、翻訳者が存在する社会·文化および歴史に大きく影響される。新文化運動のなかで中国の新しい文学が誕生したが、半封建、半植民地という中国の現実によって制约を受けざるを得なかったため、文学が近代性を獲得するために様々な試行錯誤が必要であったといえる。このような時代において、近代中国の知識人による〈作家翻訳〉は新文学運動の先導役として重要かつ有効な営みであったと考えられる。
このような時代において、新文学運動の旗手であった魯迅と周作人は、封建的〈传 〉と西洋的〈近代〉の双方と衝突し、葛藤した。周氏兄弟の〈作家翻訳〉の背後に潜んでいたのは、自国の言語と文学を変容させたいという欲望であったのか、それとも、自国の言語と文学を変容させないまま外国のものを取り入れたいという願望であったのか。
本書は、これまで十分に注目されてこなかった周氏兄弟の〈作家翻訳〉に着目し、彼らがいかに日本近代小説を訳したのかを追い、中国における日本近代小説の受容の意義を当時の中国の政治的·社会的·文化的コンテクストに即して解明しようとするものである。従来の魯迅·周作人研究において手薄だった翻訳文化論に積極的にアプローチすることによって、日本近代小説の翻訳を草創期の近代中国文学史の中に位置づける。
ちなみに、近代中国という時空間に着目する歴史的研究である本書はまた現代的な意義を持つと考えられる。周氏兄弟が行った〈作家翻訳〉の方法や態度、特徴などを明らかにすることは、今後の〈作家翻訳〉や日中両国の文学交流のあり方に大きな影響を及ぼすと期待される。
魯迅作品に関する著書や論文は、中国においても日本においても、これまで数多く出版·掲載されてきた。これに对し、周作人は日中戦争期に对日協力をしたと見なされたため、場合によっては「漢奸」と指弾されたこともあり、長い間、中国では批判的に扱われていた。そのため、周作人に関する研究はほとんど行われてこなかった。周作人研究が急速に進展したのはごく近年の傾向である。
一方、日本の比較文学研究上では、「魯迅·周作人と日本」というテーマは、重要なものとして研究者に注目されてきた。そのなかでは、特に、魯迅の留学体験に関する研究が数多くある。阿部兼也『魯迅の仙台時代——魯迅の日本留学研究』(東北大学出版会、1999)は、日本留学前の魯迅が清朝の新式学堂で受けた教育と、留学後、特に仙台医学専門学校で受けた教育を丹念に調査し、魯迅の医学志望が文学運動へと転じていく過程を論じている。北岡正子『魯迅——日本という異文化のなかで』(関西大学出版部、2001)は、留学した弘文学院の関係文書や日本外交文書、明治の新聞·雑誌記事など大量の新資料を发掘しつつ、来日の月日から 路、船名の考証から始まって、教育救国の使命を背負った魯迅たち留学生間での「国民性」をめぐる議論、嘉 治五郎ら学院側の誠実な努力にもかかわらず留学生との間に広がっていく亀裂などを紹介した労作である。
日本人作家と比較する立場からの研究は少なくないが、それは魯迅と夏目漱石の比較に集中している。例えば、藤井省三『ロシアの影——夏目漱石と魯迅』(平凡社、1985)は、ロシアの作家アンドレーエフの受容を軸として、東洋的近代創出に苦闘した漱石と魯迅について、「則天去私」「革命の聖人」説の神話に疑問符を投げかけつつ比較研究を行なっている。李国棟『魯迅と漱石の比較文学的研究——小説の様式と思想を軸にして』(明治書院、2001)は、魯迅と漱石を研究对象とし、魯迅と漱石の主要小説の特徴を時期に分けて逐一分析し、比較文学的観点から系 的·実証的に追究している。劉岸偉『東洋人の悲哀——周作人と日本』(河出書房新社、1991)は、周作人と永井荷風に江戸文化的エスプリへの共感という共通点を見出して論じている。于耀明『周作人と日本近代文学』(翰林書房、2001)は、周作人と武者小路実篤「新しい村」との関わりを中心に考察したものである。
以上のように、多くの研究考証が行われてきたものの、本研究で追究する「周氏兄弟の〈作家翻訳〉」という課題を扱ったのは少ない。中国では、作家による翻訳作品は作家自身が創作した作品と同列に見なされてこなかった。翻訳作品は長い間冷遇·軽視されていた。『現代日本小説集』所載のものを含め、魯迅の翻訳作品が『魯迅全集』に收められていない現状は、こうした事情を反映したものであると考えられる。
中国文学の近代化に果たした翻訳の役割ということを考える上では、明治日本の翻訳文学に関する研究と同様に、ヨーロッパの文学の翻訳に研究が集中する傾向があった。周氏兄弟の翻訳に関しても、『域外小説集』などのヨーロッパ文学の翻訳がよく言及されているが、『現代日本小説集』はほとんど研究の对象となってこなかった。先行研究でも、魯迅と周作人の研究の一端として翻訳集『現代日本小説集』に関する紹介が見られるものの、断片的にしか触れられていない場合がほとんどである。それも、原作者や作品を詳しく論じたものとはいえない。『現代日本小説集』の先行研究と呼べるものは、次の二つがある。小川利康「中国語訳·有島武郎「四つの事」をめぐって——『現代日本小説集』所載訳文を中心に」『大東文化大学 要人文科学』(通号30号、1992)と西原大輔『中国における新しい人間像の模索——魯迅·周作人共訳『現代日本小説集』を手がかりに』(東京大学 合文化研究科1991年度修士学位論文)である。
小川利康の 要論文は、書誌学研究の立場から、『現代日本小説集』の附録に引用された有島武郎の「四つの事」の短編の中国語訳が周作人によるものであると指摘したものである。
西原大輔の研究は、『現代日本小説集』に收録されている個々の作品や断片について考証するにとどまらず、この翻訳集を 合的に把握し、绵密に論じた最初の論文である。筆者は、西原氏の研究を高く評価し、その提示された方向性を踏まえて、本書で原作と翻訳のテキストを具体的に検討し、日本と中国それぞれの文壇の背景や文化的コンテクストを視野に入れて、考察·分析を行っていく。
今日、世界中で隆盛を誇っている翻訳学という学際的な学問領域は、文化研究や文化理論と強固に手を携えることによって可能となった。その転機は、「文化的転回」(cultural turn)とも呼ばれる。これまでもっぱら二言語間の一方通行的な変换行為であると考えられてきた翻訳が、二文化間の錯綜した、双方向的な交渉·交流現象として、根本から問い直されることになったのである。原文への忠実さ、翻訳の過程で何が失われ何が加わったのかなど、翻訳を語り、論じる際に長らく使用されてきた传 的概念や枠组みも、当然その見直しを迫られることになった。
本書が用いる〈作家翻訳〉の概念を明確にするために、井上健が『文豪の翻訳力 近現代日本の作家翻訳——谷崎潤一郎から村上春樹まで』(武田ランダムハウスジャパン、2011)で展開した翻訳文学理論を援用する。井上健は「作家の翻訳というものを考えていく立場からすれば、直訳对意訳なる、その実きわめて曖昧とした枠组みの中で作業をするものとしての翻訳者像を、二言語、二文化の、主体的で創造的な仲介者として捉え直していく方向性」を提示している。さらに、「作家翻訳の主要テーマである、翻訳が作家の創造性にいかに働きかけたか、という意味での創造性(creativity)の問題は、翻訳学のかような多様な展開と興隆のなかでも、なおかつブラックボックス化されて、少数の例外を除いては等閑にされがちである」と指摘している。
本書においては、こうした作家翻訳論を念頭に置きつつ、「近代中国における〈作家翻訳〉と日本」という課題を追究し、周氏兄弟における日本文学·文化の翻訳者という側面に新たな光をあてたい。
本書では主なる研究对象として『現代日本小説集』を取り上げ、そのなかのいくつかの作品を代表例として選択し、分析·考察を行なう。この『現代日本小説集』は新文学運動期における魯迅·周作人の日本近代文学翻訳の最初の試みである。彼らの日本小説に对する理解と翻訳の模索がこの翻訳集『現代日本小説集』から窺えるのである。この『現代日本小説集』は、「世界叢書」というシリーズの一つとして、1923年6月に上海の商務印書館より刊行された。日本の同時代作家15名30編の短編を收めた中国語訳小説集である。
图1 周作人編訳『世界叢書 現代日本小説集』
(商務印書館、1923)の表纸
表1 『現代日本小説集』の所載作品
(*目次順で並べ、筆者が日本語原題を付した)
『現代日本小説集』を分析对象とする意義を次のように考える。
(一)本書が主なる分析对象とする翻訳テキストの多くは、新聞や雑誌に发表されたことがある。この『現代日本小説集』が出版されたのは1923年のことであるが、実際、この翻訳集は1918年からおよそ4年間というほぼ新文学運動期全体にわたる訳業を網羅したものである。
(二)この『現代日本小説集』には、近代文化転换期に置かれた、目覚めはじめた近代中国の知識人階層の新たな自己認識が潜んでいる。そして、文化的にさまざまな矛盾·对立した要素が み合い、複雑な精神的構图を呈示している。
また、考察と論述の過程においては、主に次のような作業を行なう。
(一)翻訳者による翻訳对象の選択、その底本の選定、そして日本語原文の読み込み、さらには中国語による再現までのプロセスを実証的に追究する。
(二)作家の訳文自体を吟味·評価しながら、それらが同時代の中国語のいかなる規範に基づいて、いかなる方針で翻訳されたかの考察を行なう。
(三)翻訳者が行った翻訳の内的要請を明らかにする。
(四)作家による翻訳である以上、それが文体や主題の面で、訳者自身の創作活動といかなる関係を ぶものであるかを解明する。
(五)周氏兄弟の〈作家翻訳〉がいかなる歴史的、文学史的意味をもつのかを追究する。
次に、30編の作品から主なる分析对象とする翻訳作品を取捨選択した理由を述べる。
本書は、夏目漱石と白樺派の作品を具体的な分析对象とはしていない。それは以下のような理由からである。
夏目漱石の作品は、「クレイグ先生」「懸物」の2編ともに短編集『永日小品』から選ばれている。『永日小品』は「美しい離れ小島」や「文学実験の工房」と評価されるが、長編作品のようには重視されていなかった。この中から翻訳作品を選出したところに魯迅の個性が見られる。このうち、「クレイグ先生」は、漱石のロンドン留学体験を題材とし、彼の個人教授であったクレイグ先生の回想文である。この作品と魯迅の作品「藤野先生」の影響関係について、平川祐弘は『夏目漱石——非西洋の苦闘』(新潮社、1976、10頁)のなかで詳 に論じた。
漱石はイギリスで、魯迅は日本で、ともに後進国から来た留学生として使命感と重圧感に悩まされた。魯迅は、愛読した漱石がロンドンでつらい生活を送ったことを知った時、漱石に对しますます愛着を覚えたのだろう。そして、仙台で自分を大事にしてくれた藤野先生をなつかしく思い出したのだろう。太宰治の『惜別』が魯迅の『藤野先生』をもとに書かれたことは知られているが、その『藤野先生』も漱石の『クレイグ先生』に刺戟されてできた作品なのではなかろうか。弟の周作人の証言によると、魯迅の翻訳でいちばん優れた中国文は『克莱喀(クレイグ)先生』であるという。
この比較文学的な研究の成果により、「クレイグ先生」に反応し、さらに翻訳した、当時の魯迅の心境が明瞭に示されている。そうした意味で、本書は魯迅の創作や評論などの内面を探求するために、なるべくまだ研究されていない作品を对象としたい。したがって、これまでの魯迅と漱石の比較研究を尊重しながらも、本書においては主要な考察对象とする必要を感じない。
また、この翻訳集は白樺派作家の作品が3分の1の比重を占める。白樺派は大正文学を代表するといってよい。1910年に創刊された『白樺』は、武者小路実篤·志賀直哉·有島武郎などを同人としていた。時代的な束缚から脱却しようとする彼らの努力の姿勢は、中国の五四新文学の創作精神と共通するものである。白樺派作家が主張した個人の自由と理想の追求は近代的精神に欠かせないものであり、当時の中国知識人が平易なる国民文学を建設しようとした文学革命の主張と関わっていると考えられる。魯迅と周作人が翻訳を行った白樺派の作品は、有島武郎「小さき者へ」「お末の死」、長与善郎「亡き姉に」「山の上の観音」、武者小路実篤「久米仙人」「第二の母」、志賀直哉「網走まで」「清兵衛と瓢箪」、千家元麿「深夜の喇叭」「薔薇の花」の計10編である。周氏兄弟が、当時日本の白樺派が展開していた文学に関心を寄せていたことは明らかである。そのため、周氏兄弟と白樺派作家の関わりについては従来の研究でもよく言及されてきた。そのなかでも、もっとも注目されたのは武者小路実篤との関わりであった。魯迅は、武者小路実篤の戯曲『ある青年の夢』(1916)を1919年8月から翻訳しはじめ、『新青年』に連載した後、単行本に收めた。周作人は後に、武者小路実篤と文通したこともあり、武者小路の「新しき村」を訪問し、それに共鳴したことが先行研究によって明らかである。
武者小路実篤を中心とする白樺派と周氏兄弟との関わりは、手纸や面会などの形式による直接的交流を通して明らかであるために、本書で提示する〈作家翻訳〉と密接な関係を有するとは思われない。それゆえ、本書の主な分析对象として取り上げることはしない。
本書は、序章と 章を除き、全六章で構成されている。各章の内容は以下のようになっている。
第一章は、翻訳集『現代日本小説集』の大まかな見取り图である。『現代日本小説集』がどのような時代的背景において生まれたかを検討する。まず、『現代日本小説集』に先行する翻訳や、周氏兄弟が日本留学の時に行った西洋文学の翻訳紹介に触れる。次に、『現代日本小説集』翻訳刊行の出版をめぐる時代状况を考え、日本文学の翻訳への移行した要因、短編小説という形式の問題や主な翻訳手法などを考察していく。
第二章「周作人「人間の文学」の出发点——江馬修「小さい一人」を中心に」では、周作人が訳した江馬修の「小さい一人」に注目して、彼の翻訳意图を探る。「小さい一人」の翻訳は周作人の日本小説翻訳の最初の作品である。ここでは同号の『新青年』に掲載された文学評論「人間の文学」との連関を重視する。そして、最初の日本近代文学の翻訳が、当時の作家自身の文学理念といかなる関係を んでいるのかを解明する。また、江馬修を翻訳したことが周作人の独步観や独步の「少年の悲哀」の翻訳にもたらした影響を明らかにする。
第三章「「危险なる洋書」と森鷗外「沈默の塔」——翻訳作家の立場」では、魯迅が愛読した森鷗外「沈默の塔」を取り上げ、鷗外と魯迅の両者の翻訳作家の立場を明らかにしたい。考察·分析にあたって、日本のニーチェ受容の事情に触れたうえで、日本語版『ツァラトゥストラ』の序文である「沈默の塔」に見られる表象を当時の中国の時事的要素と びつけ、翻訳の意图を読み解く。
第四章「「役所」と「文壇」の狭間で——魯迅と森鷗外「あそび」をめぐって」では、魯迅が森鷗外「あそび」を翻訳したことに注目し、その動機を考える。さらに作品間の影響関係を析出し、そこから魯迅がいかに鷗外文学を理解したのかという問題を、官僚文人という二人の共通点を検討することによって明らかにする。魯迅による「あそび」の読みを、中国の時事的な状况と びつけたうえで、中国の政治·文化の文脈の中に置き直し、彼自身を含む新しい知識階層の内面的な風景を描いた作品「端午の節季」を創出したことを論じる。
第五章「魯迅における芥川龍之介と菊池宽の歴史題材小説の受容」では、大正日本の歴史題材小説の代表的作家である芥川龍之介と菊池宽の作品と魯迅との関わりに注目したい。芥川龍之介「羅生門」と菊池宽「三浦右衛門の最後」について、魯迅の解釈は訳者付記に語られている。訳者付記によって、魯迅が原作のなかで描かれている物事を中国の歴史上の人物や事件と関連させて理解していたことを明らかにする。さらに、魯迅の小説「阿Q正传」を視野に入れることで、彼が翻訳から吸收したものをいかに彼自身の創作に生かしたかを考える。
第六章「佐藤春夫と周氏兄弟の「相互翻訳」」は、翻訳を介した周氏兄弟と佐藤春夫の交流に関する考察である。魯迅と周作人そして佐藤春夫は、日中両国それぞれにおいて近代文学史上忘れることのできない作家である。しかしながら、彼らの間で、かつて翻訳を通して相互理解を求めようとしたことはほとんど知られていない。まず、日記や書簡などの資料を通して、周氏兄弟と佐藤春夫との文学上の往来を概観する。さらに、『現代日本小説集』に收録された佐藤春夫の作品「雉子の炙肉」に着目し、この作品を中国の新文学建設との関係から分析·検討する。また、魯迅の作品「故郷」の佐藤春夫による翻訳·紹介をめぐって、日中の作家の「相互翻訳」の様相を明らかにする。本章では、従来の翻訳者の異文化理解と受容の一方的な影響関係とは異なる、日本と中国の文化「移動」の連環を論ずる。