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第二節
「危险なる洋書」

前述したように、「沈默の塔」は、1910年11月、『三田文学』に发表され、翌年の生田長江訳『ツァラトゥストラ』の序として、「訳本ツァラトゥストラの序に代ふ」という副題を付けて再掲載された。『ツァラトゥストラ』は、1885年に发表された、ドイツの哲学者フリードリヒ·ニーチェの後期思想を代表する著作である。ほかに、『ツァラトゥストラはかく語りき』『ツァラトゥストラはかく語れり』『ツァラトゥストラはこう言った』等とも訳される。この作品は全4部から構成されており、「神は死んだ」といったそれまでの価値観に对する挑发的な記述によって幕を開け、ツァラトゥストラの口を通じて、超人や永劫回帰の思想が論じられている。

この『ツァラトゥストラ』を日本語に翻訳した生田長江(1882~1936)は明治末期から活躍した評論家であり、文芸誌『青鞜』の企画者でもある。翻訳家としても有名であり、彼の訳したニーチェ全集は日本の思想界に多大な影響を及ぼした。ダヌンツィオの『死の勝利』、ダンテの『神曲』、ツルゲーネフの『猟人日記』、ローベール『サラムボオ』なども訳している。生田の翻訳によるニーチェの『ツァラトゥストラ』は1911年1月に新思潮より发行され、1919年までに9版を重ねている。

この日本語版『ツァラトゥストラ』の序文でもあったこの森鷗外の「沈默の塔」は、1910年9月16日から10月4日にかけて全14回にわたって東京朝日新聞に連載された「危险なる洋書」の鷗外批判に对する個人的な反駁という性格を持つ作品である。それと同時に、ニーチェの『ツァラトゥストラ』という作品に内包されている因襲打破の論理思想を踏まえて、パアシイ族を登場させ、マラバア·ヒルを場所として設定している作品である。@@@

次に、「沈默の塔」が发表される背景となった当時の社会状况と言論情勢を概観してみたい。

この作品は大逆事件に端を发し不当な文芸弾圧を批判的に捉える作品と考えられる。大逆事件とは1910年に明治天皇を暗殺すると計画したという理由で多数の社会主義者、無政府主義者が検挙、処刑された事件である。幸徳事件ともいうこの事件は文学者にも大きな衝撃を与えた。

日本では、明治以降昭和20年の敗戦まで约80年間にわたり、厳しい言論 制と検閲制度が いた。1889年2月に发布の帝国憲法には、言論の自由については、「法律ノ範囲内ニ於テ言論、著作、印行、集会、及 社ノ自由ヲ有ス」(第29条)とされていた。しかし、準拠法規として、言論の自由を 制する「新聞纸条例」「出版条例」「保安条例」「集会条例」の4つの言論 制法の範囲内という制限つきでしか認められなかった。一般图書出版物を扱う出版法は明治26年法律第15号、新聞に関する新聞纸法は明治42年法律第41号が出された。一般出版物はこれらの出版法の規定によって、出版の3日前までに当局に製本2部を 本し検閲を受けることが義務として課せられるようになった。

実際、1909年(明治42)5月の新聞纸法第23条と1893年(明治26)4月の出版法第19条には「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書图画を出版シタルトキハ内務大臣二於テ其ノ发売頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得」とある。

では、こうした出版状况が如何に「沈默の塔」に反映されたのか。作品中に次のような記述が見られる。

新聞に殺された人達の略传が出ていて、誰は何を読んだ、誰は何を翻訳したと、一々「危险なる洋書」の名を挙げてある。

己はそれを読んで見て驚いた。 [1]

ここに挙げられている「危险なる洋書」というのは、1910年9月16日から10月4日にかけて全14回にわたって東京朝日新聞に連載された「危险なる洋書」という記事であり、そこに鷗外を名指しで批判する部分が次のように見られる。

春機發動小説と紹介者 エデキント「春機發動」「チチ、ハハ」と云ふ小説には少女の肉體的敎育の事が書いてある。戲曲には先にあげた二つの外「惚れ藥」「出發前半の時間」( 鷗外譯 「一幕物」中にあり)その他二三あるが今「春機發動」の梗概,「ヒラルダ」, 森鷗外先生 は日本に於けるエデキントの最初の紹介者であるが、此の 鷗外先生 は昨年「スバル」に靑年の性慾發達史めいたものを書いて發賣禁止を受けさせられた而して博士の夫人は頻りと婦人生殖器に關する新作を公にされる。

これは、1910年(明治43)9月21日の『東京朝日新聞』に掲載された記事「危险なる洋書⑥」である。「危险なる洋書」とされた作品を翻訳することで、それらの紹介者となっていた鷗外は、名指しで非難されたのである。このような批判に对して彼は、「沈默の塔」を发表することによって機敏に反応したのである。先に引用した作品中の「危险なる洋書」はこのような背景の下で生まれた言葉だと考えられる。

「危险なる洋書⑥」に き、1910年(明治43)9月22日の「危险なる洋書⑦」において、ニーチェと『ツァラトゥストラ』とも「危险なる」对象として挙げられている。

宗敎道徳に反抗して惡魔氣取 ニイチェ,ザラツストラ ,「無花果」の著者、今の新社會劇の作者中村春雨も近頃大分 ニイチェ を振廻す樣になつた、其「牧師の家」の根本思想は ニイチェ で其他の大部分は「牧師の家」といふ名からしてイブセンの「人形の家」を眞似たらしくて厭だが船長が夫人を脅暍する邊もイブセンの「海の夫人」に似て居るし、更に子供が塔から堕ちて死ぬ處などもIBUSENにはあるのだ。此人達の見當で進めば日本の祖先崇拝など悠見なるか考へても恐ろしいではないか。

前述したように、生田長江訳のニーチェ『ツァラトゥストラ』の序文として同書に收めらたのは鷗外の「沈默の塔」である。こうした背景を合わせて考えれば、「沈默の塔」という作品自体が一層危险そうなものになるわけであり、そこには鷗外の意気込みも感じ取れる。

この作品の中に、「己」と脚の長い男との会話場面がある。二人が交わす言葉には、「沈默の塔」という場所が表われる。

「へんな塔のある處へ往つて見てきましたよ。」

M a l a b a r h i l lでせう。」

「あれは何の塔ですか。」

「沈默の塔です。」

「車で塔の中へ運ぶなのはなんですか。」

「死骸です。」

「なんの死骸ですか。」

P a r s i 族の死骸です。」

「なんであんなに澤山死ぬのでせう。コレラでも流行つてゐるのですか。」

「殺すのです。また二三十人殺したと、新聞に出てゐましたよ。」

「誰が殺しますか。」

「仲間同志で殺したのです。」

「なぜ。」

「危险な書物を讀む奴を殺すのです。」 [2]

「危险なる書物を讀む奴」を「仲間同志で殺した」と語っているように、鷗外は現実上の文壇の内部闘争を巧妙に「 P a r s i族」の殺し合いを描くことによって表現している。

渋川驍は、「日本のこととすることを憚って、インドの西岸マラバア·ヒルにある、パアシイ族の、沈默の塔を語っているのだが、それが当時の不当な検閲態度に对する忠告であり、諷刺であることは、一見して明らかであるように書かれている」 としている。

「沈默の塔」の冒頭に次のように書かれている。

髙い塔が夕の空に聳えてゐる。

塔の上に集まつてゐる鴉が、立ちそうにしては又止まる。そして啼騒いでゐる。

鴉の群を離れて、鴉の振舞を憎んでゐるのかと思はれるように、鷗が二三羽、きれぎれの啼聲をして、塔に近くなつたり遠くなつたりして飛んでゐる。

疲れたやうな馬が車を重げに挽いて、塔の下に來る。何物かが車から卸されて、塔の内に運び入れられる。

一臺の車が去れば、次の一臺の車が來る。塔の内に運び入れられる品物はなかなか多いのである。

己は海岸に立つてこの樣子を見てゐる。汐は鈍く缓く、ぴたりぴたりと岸の石垣を洗つてゐる。市の方から塔へ來て、塔から市の方へ歸る車が、己の前を通り過ぎる。どの車にも、軟い鼠色の帽の、鍔を下へ曲まげたのを被つた男が、馭者臺に乗つて、俯向き加減になつてゐる。

不精らしく步いて行く馬の蹄の音と、小石に觸れて鈍く軋る車輪の響とが、單調に聞える。

己は塔が灰色の中に灰色で畫かれたやうになるまで、海岸に立ち盡してゐた。 [3]

この冒頭部分と对照的に、末尾に次のように書かれている。

そして、沈默の塔の上では、鴉が宴會をしてゐる。(中略)

マラバア·ヒルの沈默の塔の上で、鴉のうただけが酣である。 [4]

ここに描かれている「鴉が宴會をしてゐる」とは鳥葬のことである。鳥葬とは、死者を鳥についばませることによって死体を処理する葬制である。鳥葬を行う宗教には主にチベット仏教とゾロアスター教があり、マラバア·ヒルにある沈默の塔はゾロアスター教における鳥葬のために設置された死体置き場である。この作品において、沈默の塔は「パアシイ族の死骸」を処理する場所として設定されている。

引用した作品の冒頭と末尾の部分におけるこれらの描写は、単なる情景を描写するというよりもメタファーの可能性が高いと思われる。つまり、「鴉」と对照的に配置されている「鷗」は、文壇と距離を置きはじめ、文壇の悲惨な状况を傍観している鷗外自身を喩えているように見える。 BErtIha68npFcccnQQ8psgp3Pfam2xRqzC5G1NPsPErO1syvVDvPhBhviZqjPL+i

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