魯迅は、「私はどうして小説を書くようになったか」(「我怎麼做起小説來」)という随筆において、最も愛読した日本文学作家として、夏目漱石とともに、森鷗外を挙げている。
周知のように、森鷗外(1862~1922)は、1884年から1888年までドイツヘ留学している。このヨーロッパ体験によって彼の教養と見識を深め、帰国後日本の医学界、文学界の革新のために大いに活躍することとなった。
長年、森鷗外研究は日本文学や日独比較文学の分野において重要視されてきたが、日中比較文学という視座からの考察は決して多くはない。
魯迅は、1920年8月から中華民国教育部に勤務する官僚である傍ら北京大学で講師を勤め、中国小説史の講義を行っていた。その活動の一方で、『新青年』『晨報』などの刊行物に創作と翻訳を寄稿していた。
魯迅が翻訳した森鷗外の作品は「沈默の塔」と「あそび」の2編である。両作とも1910年に发表された短編小説であり、鷗外の作品群のなかで日本においてほとんど注目されておらず、代表作に挙げられるものではない。それではなぜ魯迅はこの両作品に注目し、中国語に翻訳したのかを考えたい。本章と次章は森鷗外と魯迅との関わりに着目する。
1921年、魯迅は、数多くの作品の中から森鷗外の「沈默の塔」(1910)を選択し、その中国語訳を1921年4月21日から24日にかけて、『晨報』(第7版)に連載した。訳題は「沈默之塔」とされている。
鷗外の「沈默の塔」は1910年11月に『三田文学』に发表され、後に、ニーチェ作で生田長江訳の『ツァラトゥストラ』(新潮社、1911年1月)に序として掲載された。その際、「訳本ツァラトゥストラの序に代ふ」という副題が添えられていた。
竹盛天雄は「「ファスチェス」から「沈默の塔」へ——言論圧迫への諷刺と提言」 で、「沈默の塔」は、鷗外が、当時厳しくなった当局の言論弾圧に对して、自分の立場をあきらかにしようとした作品だとしている。1910年9月に、鷗外の「ファスチェス」が发表されたあと、大逆事件の衝撃にともない、当局の弾圧は激しくなり、出版物に对する規制が強化されてきた。それに呼応するかのように、『東京朝日新聞』に掲載された「危险なる洋書」という評論では、鷗外の作品や翻訳も、道徳を壊乱する危险な書物として攻撃されていた。鷗外は、自分が当局にとって決して危险ではないことを説明しようとして、この「沈默の塔」を書いたというのである。
本章は魯迅が「沈默の塔」を翻訳したことに着目し、その成立過程と翻訳意图を明らかにしたい。主に魯迅が鷗外「沈默の塔」のいかなる点に注目し、また何故それに注目したのか、という問題について考察していく。