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第四節
『現代日本小説集』に見る江馬修と国木田独步の文学的接点

すでに紹介したように、江馬修「小さい一人」の中国語訳である「小小的一個人」を收める『現代日本小説集』の巻頭には、国木田独步の作品「少年の悲哀」と「巡査」の2作が收録されている。「作者に関する説明」の冒頭に書かれた国木田独步についての紹介文の記述が注目に値する。

『現代日本小説集』の「作者に関する説明」における国木田独步の項目は以下の通りである。

国木田独步(Kunikida Doppo,1871~1908)名は哲夫。日本の自然派小説家の先駆と称されることが多い。彼の傑作である『独步集』が1904年に出版されたが、彼のことは当時あまり注目されておらず、田山花袋が現れて自然主義の旗を挙げてから、ようやく彼の価値が徐々に知られるようになった。然し彼はすでに肺疾患を持っていて、間もなく死亡した。『独步集』の中にある「正直者」(Shojikimono)と「女難」(Nyonan)の何編かの中に見られるあのような厳粛な意味での性欲を描写するのは確かにそれ以前の小説にはなかった。しかし彼の興味はこの面に集中するのではなく、彼の意見もゾラの一派からのものではない。彼の思想はかなりワーズワースの影響を受け、彼の芸術はツルゲーネフを師匠としていたので、彼の流派は断定し難いが、写実派ともいえるし、理想派といえないこともない。なぜなら、彼は客観を重視するが、「慈母の如き「其の愛児に对する」同情の愛を以て観察描写することが詩人の第一本義になる」と主張しているので、これは自然主義の態度とかなり違う。

「少年の悲哀」(Shonen no Kanashimi)は『独步集』に收められていて、作者の幼いごろへの回想である。 江馬修は、彼の名作である「牛肉と馬鈴薯」よりよいという [12] (364~365頁)

まず、上述の引用で特に注目したいのは、「江馬修は、彼の名作である「牛肉と馬鈴薯」より佳いと云う」という江馬修への言及である。このように、「少年の悲哀」の翻訳紹介に江馬修の存在が浮上してきたが、江馬修と独步はいかなる接点を有していたのであろうか。

この関係を検証するために、周作人日記に記載されている图書購買記録の1919年(民国8)3月と4月の内容を見てみよう。

八年書目

三月

「國木田獨步 江馬修」

「運命 國木田獨步」

四月

「第二獨步集 國木田獨步」

「武蔵野 國木田獨步」

1919年3月に購入した「國木田獨步 江馬修」という項目は、江馬修『国木田独步』(新潮社、1917)と推定できる。周作人が江馬修「小さい一人」を中国語に翻訳した後、江馬が筆を執った評传『国木田独步』を購入したことがこの記録から明らかになる。 けて国木田独步の『運命』·『第二独步集』·『武蔵野』もともに購入したことがわかる。

『国木田独步』は、江馬修が生涯で唯一執筆した作家評传である。この独步传は、1917年から新潮社が刊行した「日本文豪評传叢書」というシリーズ中の第1編と位置づけられている。ほかに、1918年に刊行された赤木桁平著『高山樗牛』、本間久雄著『尾崎红葉』、西宮藤朝著『正岡子規』の3点がある。「明治及び大正の文壇に文豪の名を謳はれた人々の全面目を传ふるものである。海外崇拝の時代漸く去つて国民自ら其の独自の文学を生まんとする時に当り本叢書を刊行するもの聊か思ふ所あればである」というのが、「日本文豪評传叢書」の版元新潮社の意图であったという。

「生ひ立ち」から死まで、「 論」を加えて全19章で独步の生涯を自ら整理した江馬修は『国木田独步』の「序」において、独步への敬愛と感服の意を次のように表している。

自分は独步の弟子でもなければ、特に彼に私淑してゐるものでもない。自分は又彼の生前に一度でも会つた事がなく、随つて個人的親交があつた訳でも無い。しかし自分は彼にかなりな愛と尊敬をもつてゐる。若し人から、漱石をも含めて明治の文豪の中で誰を一番重く評価するかと聞かれゝば、自分は躊躇なく彼を挙げる。 [13]

独步の「少年の悲哀」は、1902年(明治35)8月の『小天地』に发表された短編であり、後に「牛肉と馬鈴薯」や「春の鳥」など8編とともに、1905年(明治38)7月に刊行された『独步集』(近事画報社)に收められた。周作人の日記の購書書目にあたると、『独步集』の購入は1918年(民国7)5月のことである。

江馬修は自叙传『一作家の步み』の第1章の「どうして文学を志したか」において、国木田独步から受けた感銘と影響を以下のように語っている。

「独步集」が世に出て、彼が一やく有名になったのは二三年後のことである。当時作家として有名だったのは、红葉であり露伴であり、柳浪であり、眉山であった。私はこの人たちの作品を殆ど読んでいなかったが、予感として好きではなかった。红葉初め多くの作家は、私には一種の芸人か、単なる戯作者のように思われた。私は独步で初めて、新しい、風格のある真に詩人的な日本の作家をみたと思った。私が将来、自分も作家として立ちたいと考えるようになったのには、独步が少なからず影響したと思う。 [14]

この引用に見られるように、「红葉初め多くの作家」が「好きではなかった」江馬修は「独步で初めて、新しい、風格のある真に詩人的な日本の作家をみた」と独步文学を高く評価している。

当時の自然主義文学について、江馬修はこの自叙传の「自然主義文学運動の洗礼」の節において回顧しながら詳しく語っている。長くなるが、その回想を引用する。

彼らは人生をあるがままに見よ、現実を暴露せよと叫びはしたが、国家と主権を直視することはできず、社会的現実をふかく掘り下げることはできなかった。この運動は始めから科学的な世界観に立脚したものではなく、むしろ哲学と思想的解決を排除してかかったので、これは当然のなりゆきであった。こうして現実暴露の主題はいつとなく淫売宿や、ろこつな性欲描写とすりかえられてしまったし、無理想無解決の方針は、当然のことながら生活の方向を見失い、出口を見出しえないような人間の虚無的な、放 な、またはすてばちな生活を得々として描くことに落ちて行った。さらに、小説本来の使命ともいうべき物語性を否定し、多少でも特殊な題材や異常な人物を非現実的と見なして殊更忌避した 果、おのずと日常平凡な灰色の生活とその些未事を 写するいわゆる私小説の方向へ延びて行った。こうして自然主義は当初の進步性と新しい魅力を失ってしまった。こういう私も、いつとなく自然主義文学に興味と関心を失って、改めて正しい道を見出すために、その後思想上、芸術上に苦しい幾度の変転を 験しなければならなかった。 [15]

この引用文は、日本文壇を風靡した自然主義文学に对する江馬修の評論である。この評論において、かつて自然主義文学の洗礼を受けた彼はその欠点と限界を鋭く指摘し、彼自身における思想、芸術の変転した理由を吐露した。安直な露悪趣味で、そして物語性や社会性の欠如などの原因によって、 局、文学を変形させてしまったという自然主義文学への彼の批判的態度が窺える。

次に、注目すべきなのは江馬修が、前述した独步传のなかで、独步文学に含まれる非自然主義文学的な要素を見出そうとしていた彼の独步観を示している点である。

しかし彼は自分を自然主義者として呼ばれることを喜ばなかつたばかりでなく、所謂自然主義的態度に飽き足りなかつた。自然主義の排理想、排主觀、排技巧、無解決等の主張に對して彼は理想を重んじ、主觀を重んじ、技巧を重んじ、解決を欲した。同じ客觀を重んずるにしても、前者が同情を棄て、虛心平氣を以つてせんとするのに、彼は「母の如き同情を以て觀察描寫」*することを詩人の第一本義と考へた。

*原註:

澁谷時代に花袋に送つた手纸の一節で彼の死去當時「文章世界」に載つたものである。「 慈母が其愛児 の死狀を説くよりも寫實的の者あらんや。小生は今もなほ悲慘痛绝なる光景の歷々眼底に再現し來るを覺ゆ、嗚呼吾等をして 母の如き同情の愛を以て觀察描寫せしめよ、是れ詩人の第一本義とこそ存候。 [16]

原註を含めたこの1節は、先に引用した『現代日本小説集』の附録における「作者に関する説明」の国木田独步の項目と照らし合わせると、内容上に合致するところが相当に多く、その大半がほぼ文字通りに翻訳されているのは明白である。当該箇所を再び引用しておこう。

彼は客観を重視するが、「慈母の如き「其の愛児に对する」同情の愛を以て観察描写することが詩人の第一本義になる」と主張しているので、自然主義の態度とかなり違う。 [17] (364頁)

このように、原作者独步の文学に对する評価を通して、訳者である周作人は独步の作風を自然主義の作風と一 を画するものとしたことは明白である。これによって、周作人は単に江馬修の独步传を入手したばかりではなく、十分に参考にした上で江馬修の独步文学に对する理解を肯定的に捉えていたと考えられる。

すでに言及した永平和雄『江馬修論』において、次のように述べられている。

もとより革命運動に邁進する左翼作家たるよりは、悠久の自然の中にいきる小さな人間たちの生態を、暖かく、愛情を込めてリアルに描く写実作家であったのかもしれない。彼の唯一の作家論が評传「国木田独步」であったことは暗示的である。 [18]

この指摘は非常に示唆に富んでいる。「悠久の自然の中にいきる小さな人間たちの生態を、暖かく、愛情を込めてリアルに描く」という江馬修の作風は、独步の「少年の悲哀」という作品に对するもっとも相応しい「注釈」といってもよいかもしれない。それゆえ、江馬修は「少年の悲哀」に共感し、これに高い評価を与えたのであろう。

また、独步の略歴の後に、周作人による「少年の悲哀」についての紹介は次の通りである。

現在訳した「少年の悲哀」(Shonen no Kanashimi)も『独步集』の中にある一篇、甚だ彼の特色が見られる。漂流する女の運命は明らかである。あの愉快な少年だった百姓は、其の大声で笑う中に多少とも悲哀の痕迹が隠れている。 [19]

注目すべきなのは、独步の「少年の悲哀」を選び、中国に翻訳·紹介した周作人が独步文学を受容するあたり重要な役割を果たした江馬修という存在である。

『国木田独步』の「独步集と運命」という節において、江馬修は次のように評している。

例へば「獨步集」と「運命」を取つて見 へ。彼が最も代表的な傑作と稱讃せられた「牛肉と馬鈴薯」の根本思想は既に「驚異」に於いて歌はれたものであり、更に「欺かざるの記」に於いてみることのできるものである。しかし自分は彼がこの作に於いて表はさうとした驚き難きを嘆ずる心と驚きたい要求とには十分眞實性を認め同感を覺えるにしても、彼がそれまで餘り度々この主題を り返した 果、この一篇は雄辯になり過ぎ、流暢になりすぎ、諳誦的になりすぎて痛切さを缺いてゐるのを遺憾に思ふ。人は寧ろ「欺かざるの記」に於いてこの作に表はされた心持の誠實な發展を見るべきである。自分はこの作よりも、寧ろ「馬上の友」「畫の悲しみ」「少年の悲哀」「春の鳥」「非凡なる凡人」の如き少年時代の囘想又は少年を書いたものを取る。 [20]

こうした『国木田独步』に見られる江馬修における独步像が、当時の周作人の独步観に投影していることは見過せない。この受容の 果が、自然主義的な内容とは異質な文学表現であった独步の「少年もの」である「少年の悲哀」の作品選択にて反映されている。一步進めていえば、江馬修なしにはこのような周作人の独步に関する評価が語り出されることはなかったかもしれない。

このように、周作人が中国の読者に自然主義文学を紹介することを特にめざしていなかったことがわかった。これに関しては、前章で触れたこの翻訳集の序文における関連内容によって確認しておきたい。

もう一つのことも、ついでに説明する必要があるようだ。この集は自然派の作品を收めていない。日本文学における自然主義運動は20世 の最初の10年間に一世を風靡した。しかし決定論に基づいての悲観的、物質主義的な文学はすでに文芸史上の過去になった。 [21] (2頁)

すでに周作人の眼には、自然主義の弊が映っていたであろう。おそらく、自然主義文学は中国の新文学の精神に相応しいものではないと考えられていたと言えよう。

周作人は1919年1月19日『毎週評論』第5号に「平民の文学」(「平民的文學」)を发表し、普遍かつ真摯な平民文学のあり方を主張している。

平民文学は貴族文学と反对するところに力を入れるべきである。すなわち内容の充実、普遍と真摯の二点である。一つ目は、平民の文学は普遍的な文体を以て、真摯な思想と事実を写さなければならない。(中略)二つ目は、平民の文学は真摯な文体を以て、真摯な思想と事実を写さなければならない。(中略)文学作品である以上、芸術の美を備えなければならない。ただし真を主とすれば、美もすなわちその中にある。これが人生的芸術派の主張である。美を主とする 芸術派と区別されるのもこの故であろう。

ここで、周作人が主張している普遍かつ真摯な平民文学というものは、国木田独步「少年の悲哀」の趣旨と密接に関わっている。彼の国木田独步の理解と自然主義文学に对する評価に江馬修の影響が明白に窺える。周作人は独步の文学を翻訳紹介する前に、江馬修の『国木田独步』を熟読し、かつ彼の独步文学観を受け入れたと思われる。 EnuNhlTP+WL39cOXCkh1H3R5zBEKcb6+gHFM/S46xb30MJZP91NfvNY0FnvnZrUR

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