本章の主な考察对象である「小さい一人」という作品については先行研究が見当たらない。つまり、あまり注目されなかったものと考えられる。そのような作品が周作人の日本小説翻訳の出发点となったことを考えてみても、彼の翻訳時の作品選択基準が興味深い。なぜ周作人は江馬修「小さい一人」に関心を持って、さらにこの作品をもって日本文学翻訳を始めたのか。この節はこの疑問を解くという目的を持って考察を始めたい。
『現代日本小説集』に收録されている「小小的一個人」の原作である江馬修「小さい一人」は、1916年4月に雑誌『ラ·テール』に掲載され、翌年創作集『寂しき道』(新潮社、1917)に收録された短編小説である。周作人は1918年12月15日に刊行された『新青年』に「小さい一人」の中国語訳を发表した。その後この作品は、周作人の翻訳作品を收めた翻訳集『點滴』にも收録された。これは周作人が翻訳した最初の日本小説である。これに関しては、雑誌『改造』(1934)に載せられた周作人のインタビュー記録「日本文学を語る」によって確認できる。
私の日本小説の譯は、『新靑年』といふ雜誌に、江馬修の『小さい一人』といふのを紹介した。私が日本の小説を譯し出したのはそれからである。
周作人の翻訳作業について、まず、彼の日記から確認したい。图書購買の目録に見られる江馬修の著作を挙げて見よう。
七年書目
六月
「寂シキ道 江馬修」
十月
「愛ト憎ミ 江馬修」 [5]
これは民国7年(1918)の目録であるが、この記述から、6月と10月に江馬修『寂しき道』と『愛と憎み』(1918)を購入した事実が確認できる。5月に刊行された『愛と憎み』は、前章で触れた新潮社の「新進作家叢書」中の13冊目にあたる。そして「小さい一人」を收める『寂しき道』は、1917年に同じく新潮社より出版された創作集である。
次に、彼の1918年の日記を精査する。「小さい一人」の翻訳に言及しているのは主に2箇所であり、次の通りである。
10月
31日晴れ午前風 江馬修著小サイ一人を訳し、夜完了。
12月
14日(前略)12時まで小的一個人を転写し、凡そ7枚、甚だ疲れた。 [6]
ここでこの作品についてごく簡単に紹介すると、「小さい一人」は、第一次世界大戦を時代背景として、「子供」と「戦争」の問題を語りかけている作品である。「僕」という主人公がある日、鶴ちゃんという近所の6歳の女の子に出会い、幼い子の口からその家庭事情を聞いて、戦争の残酷さを感じ、子供を通して人間に对する思考が深まったというストーリーである。次に引用するのは訳文をはじめて『新青年』に載せた際の周作人による紹介文である。
この1篇は江馬氏の小説集『寂しき道』(SabishikiMi t s h i1917)から訳出したのである。原作名はTshi j sa j Hitoriである。英語で訳せば、A Little Oneの意味にすぎないわけだが、漢訳の方に大変困っていて、最後、その6つの硬い漢字となった。江馬氏は新進作家であり、人道主義の傾向を有する。他に、長編小説『受難者』『暗礁』の2種類があり、『愛と憎み』という短編小説集もある。 [7]
以上の引用からわかるように、はじめて日本の小説の翻訳を試した周作人は、「小さい一人」の中国語訳題が見つからずに大変悩んでいた。このことと関係して、この中国語訳が改題されていることを指摘しておきたい。最初の「小的一個人」から「小小的一個人」と改題した。その 緯については、周作人『知堂回想録』(1970)の「卯字号的名人」という文章で述べられている。この回想文における関連部分に注目したい。
陶孟和氏が編集長を担当した其の号のことをよく覚えている。私は訳文の原稿の1篇を送った。それは日本の江馬修の小説であり、その訳題を「小的一個人」と付けた。いずれにしてもうまく訳せないが、陶君に一つの文字を付け加えて貰い、「小小的一個人」と改題にした。この事は今まで忘れられない。一字の師匠といえる。
現代中国語において、例えば、形容詞が重ね型「高高的,圓圓的」になると、強調や具体的な状况·状態を生き生きと描写する語感を帯びる。「的」の出現や重ね型の形容詞と「的」の组み合わせが従来の古語表現と異なる現代中国語における一つの特徴である。「小小的」はより中国語の口語に近い表現であり、「小的」から単音の重ね型の「小小的」への変化には中国文の言文一致が徐々に進行しつつあったプロセスが感じ取れる。日本文学を翻訳し始めた周作人は、「小さい一人」という日本語原題によく对応できる中国語訳の題名を彫琢し、言語の壁を越えることができたのである。
周作人がなぜこのような工夫を行ったかについて、当時の社会的·文化的状况を踏まえて考察してみたい。
周知のように、1910年代から20年代にかけて、日本は大正デモクラシーの中にあったが、ほぼ同時期の中国では五四新文化運動が行われていた。訳者の周作人は最初に訳文を『新青年』に发表した際に、先に引用した「江馬氏は新進作家であり、人道主義の傾向を有する」というように中国の読者に紹介した。注目すべきは同誌に載せた周作人の「人間の文学」(「人的文學」)という文章である。胡適の「文学改良芻議」や陳独秀の「文学革命論」の直後に发表したこの文章は、中国新文学運動史における画期的な意義を持つ文学評論だといっても過言ではない。
图2 『新青年』(第5巻第6号)の目次
われわれが現在提唱すべき新しい文学を簡単にいえば、人間の文学である。その反对は非人間の文学である。
(中略)
ヨーロッパでこの「人」に関する真理が发見されたのは、最初は15世 のことであって、それで宗教改革と文芸復興という 果が生まれた。二度目がフランス革命の成功で、三度目は多分、欧州大戦後に、将来の未知の事件としてあらわれるであろう。しかし、女性と子供の发見は、ずっと遅れて、19世 になってやっとその萌芽が見られるようになった。(中略)子供もただ父母の所有物にすぎなくて、そしてまだ成長していない一個の人間とは認められないで、かえって出来上がった小型の大人と見なされた。このために、家庭および教育の悲劇がどれほど演じられたかわからない。
(中略)
我々は文学からはじめ、人道主義思想を提唱する。 [8]
この評論は胡適と陳独秀の提出した文学革命の主張をさらに一步发展させて、新文学の文体のみならず、その思想面を重視し、明確に人道主義を唱えて、新文学の進むべき目標を指示したものである。このように、周作人は人間的な文学の創作を主張し、「我々は文学からはじめ、人道主義思想を提唱する」と新しい文学の創作を説くことを通じて、文学におけるヒューマニズムの方向性を示した。
ここで、周作人のヒューマニズムと江馬修「小さい一人」の翻訳との関係を考えるために、「小さい一人」の日本語原文を取り上げてみる。この作品は語り手の「僕」と鶴ちゃんとの会話を中心に展開される。会話文のなかに近い過去の体験と心理を振り返る内容が長い独白と思わせるように挿入されるのが特徴的である。以下引用が長くなるが、江馬修の反戦·非战の思想が织り込まれた人道主義的文学観がよく示されている。
「战爭の恐ろしさはどんなに云つてみても云ひ盡くされない氣がするね。毎朝新聞を見るといきなり死傷何萬、何十萬と目にうつるのだ。君はよくもこんな文字がこんなに容易らしく事も無げに書かれたり印刷されたりするものだと思はないか。僕は日露战爭時分にまだ田舎にゐてよくあつた事を思ひ出す。夜分今夜も號外が出はしないかと噂しながら家族が集まつてゐると、もう餘程遅く寝る時分になつて微かに遠くから鈴の音が聞こえて段々號外の聲が近づいてくる。僕は表へ驅け出して行つて、號外を買つて、すぐ讀まうとするが眞くら闇でちつとも見えないので、號外をもつたまゝ大急ぎで家へ驅け込んで家族の焦がれてゐる部屋へ飛びこみ、いきなり號外をランプの光に照らすと、我軍大勝利、战死者何萬といふ字がばつと浮き出す。その時の不氣味な、恐ろしいやうな氣持は中々忘れられない。君は今假りに一萬人の战死者を目の前に想像してみ へ。さうしてその一人々々が精神も感覺も——皆一つの完全な肉體と换へ難い命を持つてゐる事を知り へ。さうしてその一人々々が必ず兩親と、そのおほ方は幾人かの兄弟、妻子、血族、親戚、友人を持つてゐる事を知り へ。さうしてこの動かす事のできない眞實の前に心を搾木にかけられる痛みを經験し へ。或ひは人はこんな事は今更云ふまでも無く平凡な、極り切つた事だと云ふかもしれない。しかしそれが云ふまでもなく平凡に見えるほど、露骨な事實なのが恐ろしいでは無いか。例へばあの子を見 へ、」と自分は一間ばかり前を步いてゐた小さい女の兒を指して云ひつゞけた。「あの兒は僕達が名さへ知らない、漸く話ができるようになつた位の小さい女の兒に過ぎない。しかし人は誰でも生きてゐるにしろ死んだにしろあの子に兩親のある事が分る。恐らくは祖父母や兄弟もあるだらう。さうしてそれらから引いて樣々な遠い近い近親を持つてゐるに違ひない。かうして考へてくると、つひ僕達の目の前を步いてゐる全く見知らないあんな子供でも、人類の世界に眞實に複雜な を網のやうに繋いで生きてゐる事が感じられる。」 [9]
長いセリフの前半で語られるのは近過去の戦争をめぐる記憶にあたる内容で、後半はその残忍なイメージから現実の小さい女の児に戻り、人類の世界全体へ連 する、という構造を採っていることがわかる。
この引用における子供と戦争について考える際に、1914年に始まった欧州大戦(第一次世界大戦ともいう)の最中、子供たちの戦争のイメージにかかわる可能性のある近過去の戦争としては、日清戦争(1894~1895)と日露戦争(1904~1905)が挙げられるであろう。人道主義の立場に基づいての反戦·非戦の思想は、トルストイなどの平和主義の強い影響もあって、明治30年代から一つの流れとして存在しており、大正期の文学にも反映している。「小さい一人」が執筆された1916年という時点を考慮すれば、この作品が反戦的な性格をもつ作品でもあるといってもよいであろう。このように、「小さい一人」は、戦争では被害という程の 験をしなかった江馬修の第一次世界大戦への関心を内包する人道主義の傾向が見られる作品である。
「小さい一人」の末尾には次のように書かれている。
しかし兎に角繋がりで自分達には人類の大洋へ溶け去つたあの小さい一人のことが忘れられないのだ。さうして自分はよくこんな事を考へる、「あの子がその中にゐるといふ事實によつてだけでも自分は人類を愛せずにゐられない」と。實際に自分はあの子によつて一層深く人類について考へるやうになつたと云つても決して誇張ではない。 [10]
これは人類愛にあふれたといってもよい 末であるが、「僕」のこうした感情と思考はあくまでも「鶴ちゃん」という「小さい一人」との出会いによって動いたものであろう。
江馬の人道主義を受け入れた周作人は、前述した「人間の文学」の最後において、次のように国境を越える人類愛を唱えている。
人間と人類が常に関わって、互いに同様であるため、張三や李四と、ピータやジョンが苦しむのは、私と無関係だと言えば無関係だが、私と関係があるといえば関係があるのだ。詳しくいえば、私は張三、李四やピータ、ジョンと名前も異なり、出身地も違うとはいえても、人類に属し、同様に感覚や性情を持つだけなのだから。人が苦しいと感じるなら、私も必ず感じる。この苦しみには彼が遭遇すれば、私が必ずしも遭遇しないとはいえない。それは人類の運命は同一で、私は自分の運命を考慮すると同時に人類共同の運命を考慮しなければならないのである。
従って、我々は時代を分けて考えるだけできるが、中国と外国を分けて考えてはいけない。我々はたまに作品を書き、中国の見聞が確実なことに偏ることはいうまでもないが、そのほかにも、我々のほとんどは外国の名作も紹介する必要があり、読者の精神世界を広げたり、目に世界の人類が映じたり、人間の道徳を育成したりして、人間らしい生活を実現するのである。 [11]
ここで周作人が主張するのは、個人の運命と密接に関与している「人類の共同の運命を考慮」した上での「人間の文学」である。さらに、周作人は、「外国の名作も紹介する必要があ」ると認識した。だからこそ「人間の文学」の実現を目指していた周作人は、外国文学の翻訳が不可欠だと強く意識したに違いない。
以上述べたことと関係する周作人の訳文集『點滴』について触れておく。前述した通りに、中国語訳の「小さい一人」は『新青年』に发表された後、1920年に周作人が編訳した外国小説の訳文集『點滴』にも收録された。この訳文集では、東ヨーロッパの文学作品が中心に扱われたが、「小さい一人」も選ばれたのである。
ここで興味深いのは、周作人が『新青年』に发表した「人間の文学」という文章を『點滴』の巻末に付け加えたことである。また、『點滴』の序文において、当時の彼の文学的理想および外国文学翻訳の目標が次のように述べられている。
これらの同じ派ではない小説の中には一種の共通する精神がある。それは人道主義の思想である。楽観であろうが、悲観であろうが、彼等は人生に对していつも一種の真摯な態度を取っており、完全な解決を希求する。例えば、トルストイの博愛と無抵抗は無論人道主義で、ソログープの死の賛美も人道主義と言わざるをえない。彼等は、単数のみが私で、 数が人類だと認める。それで人類の問題の解決にも私が含まれるのであり、私の問題の解決も、その大解決の手始めになる。実際、こういう大同小異の人道主義思想は現代文学の特色である。定まりの模型で 一するのは不可能で、恐ろしくもあるので、これらの多種多様な人道主義文学はまさに真の理想的文学である。
普段われわれは理性に基づいて種々の高尚な主義を議論したり、十分に徹底させたと思っても感情が変わらなければ、永遠に空言空想にすぎなく、実現できない。真の文学は人間の感情を传えられるので、人道主義の思想を勿論われわれに传えることができるのみならず、しっかりとした思考を理性の面から感情の面に移し、われわれの心に深い印を刻み、思想から現実へ びつなぐ紐となる。これは文学に对する最大の期待であり、この1冊の集を再び出すための弁解(Apologia)でもある。
この時期において周作人は人道主義の立場からヨーロッパの文学に共通する精神を見出し、翻訳を通じて理想的文学のあり方を模索していたといえるのであろう。江馬修「小さい一人」を日本大正期の人道主義思想に基づいて書かれた代表的な作品として選択し中国に翻訳紹介した訳者周作人の意图は明らかであろう。