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第二節
江馬修と中国との関わり

この節においては、江馬修という文学者が中国といかに関わったのかを明らかにしていきたい。

江馬修は生涯にわたって3度中国に行った。まず、1926年に神戸から中国の上海を 由してヨーロッパへ渡航したことを取り上げる。観察した当時の政治的変動期の中国について、江馬修の自叙传『一作家の步み』(1957)の中に、次の記述がある。

上海で始めて外国の土をふんだ。そこで私を出むかえたのは、日本領事館づきの特高警察だった。私が上海の町々を見物していた二日間、特高は寸時も私の身辺から離れなかった。折から北伐革命軍はすでに武漢を占領して、刻々上海に迫りつつあった。そのために市街はまるで戒厳令下のような状態にあった。到るところ、商家の飾り窓に、その頃まだ上海を支配していた反動軍孫传芳の大きな肖像をかけてあったが、所によっては孫逸仙の立派な肖像と共に、革命未だ成らず云々の有名な遺訓をかざってあるのが目についた。 [3]

この1節から見てわかるように、上海で江馬修は「北伐」時の社会状况を目撃し、中国の革命的雰囲気を体験した。ここで言及された「北伐」とは、辛亥革命後の軍閥割拠状態になった中国において、蒋介石(1887~1975)指導の国民党が全国 一を目指して、1926年から1928年にかけて戦った北京政府や各地軍閥との戦争を指す。この引用において、孫传芳(1885~1935)や孫逸仙(孫文、1866~1925)といった近代中国の政治的人物の肖像がかかっていることが書き記されている。こうした激動する中国の歴史の動きを、江馬修は逃さず敏感に洞察したといえるであろう。

日本と中国の政治的動向に常に留意しつつあった江馬修は、第二次世界大戦中において、中国を中心に海外進出した帝国日本に对し、否定的な見解をもっていたようである。後年、自ら次のように語っていた。

もとより私は、満州事変以来、日本がつぎつぎと中国に对し、諸外国に对してしかける戦争を、じつに恥ずべき侵略的な、強盗的なものと見なしていた。そのために私は中国の民衆と世界の人々に对して、自分が日本人の一人であることを、たえず恥じ入るような気持を抱かせられていた。私は心から天皇軍隊の 局的敗北を祈りつづけた。こういう心情に至りつくのに私には何の誇張も努力もいらなかった。

以上に引用した江馬修の記述によって、日本人でありながら彼の帝国日本への批判、並びに中国および世界中の戦争被害者たちへの同情といった反植民地支配·反戦的な人道主義の立場が見て取れる。

近代中国の現実に目を向けようとした江馬の姿勢は、中華人民共和国が成立した後にも貫かれている。すでにプロレタリア文学者に転向した江馬修は1961年と1967年に中国を訪問した。彼は文化大革命の中国に熱いまなざしを向けて、毛沢東主義に好意を抱いていた。中国の文化大革命は、1966年から1977年まで いた、「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動である。無産階级文化大革命、プロレタリア文化大革命ともいう。

江馬修のノートに書き留められた関連内容を次に引用する。

毛沢東思想の中にだって検討すればいろいろ間違いが無いことはあるまい。とはいえ、毛沢東主義が現時におけるマルクス·レーニン主義の最高の到達点であり、世界革命の新階段にとって指導的な革命理論であることは疑う余地がない。そのかぎり、いくら毛沢東主義に对する部分的な疑いや、批判をはさむ場合でも、反中国の合唱に声を加えることは断然拒否すると決意を新たにしている。

このように、江馬修は隣国のプロレタリア革命に敬意を表し、当時の毛沢東(1893~1976)の革命思想に对する理解の姿勢を示していた。

一方、中国側から見た江馬修は、大正期の日本に留学した中国知識人たちの間に人気があって、名声が高かった。周作人をはじめ、中国の近代文学の成立に大いに貢献した中国の代表的な近代作家である張資平(1893~1959)、陶晶孫(1897~1952)、郁達夫(1896~1945)らはみな江馬修の文学に関心を寄せて、中国に翻訳·紹介をした。その 果、江馬修が中国で脚光を浴びることとなった。まだ調査は充分ではないが、現時点で判明している範囲で中国語に翻訳された作品を挙げ、中国における江馬修文学の受容状况を概観してみたい。

表3 江馬修作品の中国語翻訳年表

興味深いことに、江馬修は自分の文学がいかに中国で読まれたのかを、中国文学を摂取することによって知り得た。中国人作家郁達夫の「恋愛日記」の日本語訳を收める『同行者』を太平洋戦争の最中に偶然に入手した江馬修は、その中に彼自身に関する情報を发見したのである。このことを次のように回想している。

「追放」について私にはひとつ、忘れ難い思い出がある。太平洋戦争の最中、私が高山に住んでいた時のことである。夏の晩だった。町へ散步に出たついでに小さい古本屋をのぞくと、ゾッキ本で流されたらしい中国作家の小説集「同行者」という訳本が目にとまった。私はかねがね中国作家のものを読みたく思っていたのですぐ買って帰った。そして寝床に入ってさっそく読み始めた。郁達夫の「恋愛日記」であった。淡々と読み進んでいるうちに、私は思わず目をみはった。中に江馬修という文字が出てきたのである。上海の本屋で「追放」をたまたま買ったと書いてあるから、もはや私のことである。作者は一人の女との恋愛を日記につづりながら、一方でよみ進むままに「追放」への感想をかきつけて行く。初めは一向良く言わない。なかなか口が悪く、辛辣である。ところが、どういう加減か彼は後半を一気によみ った。そして彼の調子が一変した。彼はこれまでの批評が正しくなかったことを卒直に認め、「追放」を「生命ある大作」と推称していたのである。

私は日本で殆んど默殺されている自分の作品が、思いもかけず中国の作家、しかもすぐれた作家郁達夫によってこのように評価されているのをみて心からうれしかった。 [4]

この江馬修の文章で言及された郁達夫という作家は、近代中国の文学史と日中文化交流の近代史のなかで注目されている存在である 。浙江省富陽県に生まれ、1913年に日本に留学し、1919年11月から東京帝国大学 済学部で学び、1922年に卒業して帰国した。 済を学びながらも文学活動を けていた。留学中の1921年に、東京で郭沫若、成仿吾、張資平、鄭伯奇らの留学生仲間と共に文学団体「創造社」を 成した。同年10月に、最初の創作集『沈淪』を发表し文壇に登場した。書名ともなった「沈淪」は、日本留学時に、日本の女性に恋したことが主題になっており、主人公の孤独、性の問題、複雑な心理を描写する作品である。自然主義文学の影響の下で書かれたこの作品は中国の文壇に大きな影響を与えたという。彼は江馬修の作品を翻訳するまでには至らなかった。しかし創造社の同人の張資平は江馬修の小説を愛読し、翻訳もしたりした。

江馬修の代表作でもある日本大正文壇のベストセラーの一冊であった「受難者」は翻訳されていなぃが、それは1950年代以前の中華民国時期の翻訳が江馬修の短編小説に集中していたからであろう。1950年代以降、長編作品が翻訳されるようになって、プロレタリア文学の作品が重要視されていた。上記の翻訳年表における訳者リストをみてわかるように、彼の作品に注目していたのは「創造社」の同人たちであった。こうした受容側であった中国の文学者たちの目を通して考察することによって、江馬修文学が中国の文学者に広く受け入れられたことがわかる。このように、中国での受容という視点の導入から、江馬修文学の魅力が多面的に見えてくる。 lEPCvSq81DdyiV9ynwnqDmnvbi+7LGU6Ly3E1Wr4ghUIF2xqgKBYwjDvW6NmnvNc

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