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第一節
はじめに

1918年12月、周作人は、はじめての日本の小説の翻訳作品である「小小的一個人」を雑誌『新青年』(第5巻第6号)に发表し、日本文学の翻訳者としてのスタートを切った。「小小的一個人」の日本語原作である「小さい一人」(1916)は江馬修(えましゅう、または、えまなかし、1889~1975)が創作した短編小説である。

江馬修は現代では日中両国でほぼ忘れられている作家であるといえる。多くの日本文学史はもとより、近代文学年表の類にもほとんど記述されていない。この作家と彼の文学作品に関する先行研究や記述は極めて少なく、解明されていない部分がまだ多く残されている。本論文では江馬修の愛人であった天児直美が彼の晩年を中心に描いた評传『炎の燃えつきる時——江馬修の生涯』(春秋社、1985)と永平和雄著『江馬修論』(おうふう、2000)を参照しつつ、江馬文学の世界に可能な限りアプローチしたい。

江馬修は、1889年に岐阜県高山市に生まれた。田山花袋の書生となり、自然主義文学の影響を受けた。1911年に中村星湖に認められて処女作「酒」を『早稲田文学』に发表した。1916年の長編小説『受難者』はベストセラーとなり、大正の一時期、一世を風靡した。1926年以降は、『戦旗』に属するプロレタリア作家としても活動した。後に共産党員として活動したため、戦時中に弾圧を受けた。

永平和雄によれば、江馬の60数年に及ぶ作家生活は、およそ次の四つの時期に分けられる。

第1期:自然主義末期に出发、耽美派への傾斜をも示す初期小説の時期である。

第2期:人道主義者と見られる時期である。

第3期:プロレタリア文学の時期である。

第4期:戦中戦後の飛騨における10年で、代表作「山の民」の原型が形作られる時期である。 [1]

永平はさらに『江馬修論』の序論において、次のように指摘している。

明治末から戦後二十五年、厳密に言っても、通算五十五に及ぶ文業は、こうして概観してみても、完全に默殺されてよいものであろうか。特に「受難者」から「暗礁」以下の書き下ろし長篇小説の時代とプロレタリア文学運動、華々しく文壇の脚光を浴びた二つの時期についての忘却は、あまりにも異常である。 [2]

永平の指摘通り、江馬が完全に忘れられたのは不思議なことである。つまり、長い間、日本文学史からほぼ完全に排除されたといえるのである。しかし一方、このこととは对照的に、江馬修と彼の作品が大正、戦後の中国で紹介·翻訳されたことは興味深い。

本章では、先行研究で論じられてこなかった江馬修と中国との関わりに着目する。まず、中国文壇における江馬作品の受容の全体像を描いてみる。次に、周作人が翻訳した江馬の短編小説「小さい一人」という作品に焦点をあわせて、その翻訳の成立過程を、周作人の日記や蔵書書目、回想文などの資料を精査することによって追究する。さらに、『現代日本小説集』に收録されている国木田独步の作品をも視野に入れつつ、江馬修がいかなる役割を果たしたのかを分析する。翻訳紹介の過程における人的ネットワークに注目し、『現代日本小説集』に見られる江馬修と国木田独步(1871~1908)の接点を探ることを試みる。このような検討を通して、当時の政治的背景や新文学運動中の知識人の言説を照らし合わせながら、周作人の初期の日本小説翻訳観を考察してみたい。 G1Y2F6CFADIyf0A8W03s/AdvY7HQo9275HeLFrjf7SQE/PSudoAFM2DHgljPXv02

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