人间失格：插画版．日汉对照最新章节_太宰治著

第一の手記

恥はじの多おおい生しょう涯がいを送おくって来きました。

自じ分ぶんには、人間にんげんの生活せいかつというものが、見当けんとうつかない ^[1] のです。自じ分ぶんは東北とうほくの田舎いなかに生うまれましたので、汽き車しゃをはじめて見みたのは、よほど大おおきくなってからでした。自じ分ぶんは停てい車しゃ場じょうのブリッジを、上のぼって、降おりて、そうしてそれが線せん路ろをまたぎ越こえるために造つくられたものだという事ことには全然ぜんぜん気きづかず、ただそれは停てい車しゃ場じょうの構内こうないを外国がいこくの遊ゆう戯ぎ場ばみたいに、複雑ふくざつに楽たのしく、ハイカラ ^[2] にするためにのみ、設せつ備びせられてあるものだとばかり思おもっていました。しかも、かなり永ながい間あいだそう思おもっていたのです。ブリッジの上のぼったり降おりたりは、自じ分ぶんにはむしろ、ずいぶん垢あか抜ぬけ ^[3] のした遊ゆう戯ぎで、それは鉄道てつどうのサーヴィスの中なかでも、最もっとも気きのきいたサーヴィスの一ひとつだと思おもっていたのですが、のちにそれはただ旅りょ客かくが線せん路ろをまたぎ越こえるための頗すこぶる実じつ利り的てきな階段かいだんに過すぎないのを発見はっけんして、にわかに興きょうが覚さめました。

また、自じ分ぶんは子こ供どもの頃ころ、絵え本ほんで地ち下か鉄道てつどうというものを見みて、これもやはり、実じつ利り的てきな必要ひつようから案あん出しゅつせられたものではなく、地ち上じょうの車くるまに乗のるよりは、地ち下かの車くるまに乗のったほうが風ふうがわり ^[4] で面おも白しろい遊あそびだから、とばかり思おもっていました。

自じ分ぶんは子こ供どもの頃ころから病弱びょうじゃくで、よく寝ね込こみましたが、寝ねながら、敷しき布ふ、枕まくらのカヴァ、掛かけ蒲ぶ団とんのカヴァを、つくづく、つまらない装飾そうしょくだと思おもい、それが案外あんがいに実用品じつようひんだった事ことを、二は十た歳ちちかくになってわかって、人間にんげんのつましさに暗然あんぜんとし、悲かなしい思おもいをしました。

また、自じ分ぶんは、空腹くうふくという事ことを知しりませんでした。いや、それは、自じ分ぶんが衣い食しょく住じゅうに困こまらない家いえに育そだったという意い味みではなく、そんな馬ば鹿かな意い味みではなく、自じ分ぶんには「空腹くうふく」という感覚かんかくはどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いいかたですが、おなかが空すいていても、自じ分ぶんでそれに気きがつかないのです。学がっ校こう、中ちゅう学がっ校こう、自じ分ぶんが学校がっこうから帰かえって来くると、周しゅう囲いの人ひとたちが、それ、おなかが空すいたろう、自じ分ぶんたちにも覚おぼえがある、学校がっこうから帰かえって来きた時ときの空腹くうふくは全まったくひどいからな、甘あま納なっ豆とうはどう？カステラも、パンもあるよ、などと言いって騒さわぎますので、自じ分ぶんは持もち前まえ ^[5] のおべっか精神せいしんを発はっ揮きして、おなかが空すいた、と呟つぶやいて、甘あま納なっ豆とうを十じゅっ粒つぶばかり口くちにほうり込こむのですが、空腹感くうふくかんとは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。

自じ分ぶんだって、それは勿論もちろん、大おおいにものを食たべますが、しかし、空腹感くうふくかんから、ものを食たべた記き憶おくは、ほとんどありません。めずらしいと思おもわれたものを食たべます。豪ごう華かと思おもわれたものを食たべます。また、よそへ行いって出だされたものも、無む理りをしてまで、たいてい食たべます。そうして、子こ供どもの頃ころの自じ分ぶんにとって、最もっとも苦く痛つうな時じ刻こくは、実じつに、自じ分ぶんの家うちの食しょく事じの時じ間かんでした。

自じ分ぶんの田舎いなかの家うちでは、十じゅう人にんくらいの家か族ぞく全ぜん部ぶ、めいめいのお膳ぜん ^[6] を二に列れつに向むかい合あわせに並ならべて、末すえっ子この自じ分ぶんは、もちろん一いちばん下しもの座ざでしたが、その食しょく事じの部へ屋やは薄うす暗ぐらく、昼ひるごはんの時ときなど、十じゅう幾いく人にんの家か族ぞくが、ただ黙もく々もくとしてめしを食くっている有様ありさまには、自じ分ぶんはいつも肌はだ寒さむい ^[7] 思おもいをしました。それに田舎いなかの昔むかし気質かたぎの家うちでしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪ごう華かなもの、そんなものは望のぞむべくもなかったので、いよいよ自じ分ぶんは食しょく事じの時じ刻こくを恐きょう怖ふしました。自じ分ぶんはその薄うす暗ぐらい部へ屋やの末まっ席せきに、寒さむさにがたがた震ふるえる思おもいで口くちにごはんを少量しょうりょうずつ運はこび、押おし込こみ、人にん間げんは、どうして一いち日にちに三さん度ど々さん々どごはんを食たべるのだろう、実じつにみな厳粛げんしゅくな顔かおをして食たべている、これも一種いっしゅの儀ぎ式しきのようなもので、家か族ぞくが日ひに三さん度ど々さん々ど、時じ刻こくをきめて薄うす暗ぐらく一ひと部へ屋やに集あつまり、お膳ぜんを順じゅん序じょ正ただしく並ならべ、食たべたくなくても無む言ごんでごはんを噛かみながら、うつむき、家うち中じゅうにうごめいている霊れいたちに祈いのるためのものかも知しれない、とさえ考かんがえた事ことがあるくらいでした。

めしを食たべなければ死しぬ、という言こと葉ばは、自じ分ぶんの耳みみには、ただイヤなおどかしとしか聞きこえませんでした。その迷信めいしんは、（いまでも自じ分ぶんには、何なんだか迷信めいしんのように思おもわれてならないのですが）しかし、いつも自じ分ぶんに不ふ安あんと恐きょう怖ふを与あたえました。人にん間げんは、めしを食たべなければ死しぬから、そのために働はたらいて、めしを食たべなければならぬ、という言こと葉ばほど自じ分ぶんにとって難解なんかいで晦渋かいじゅうで、そうして脅迫きょうはくめいた響ひびきを感かんじさせる言こと葉ばは、無なかったのです。

つまり自じ分ぶんには、人間にんげんの営いとなみというものが未いまだに何なにもわかっていない、という事ことになりそうです。自じ分ぶんの幸福こうふくの観念かんねんと、世よのすべての人ひとたちの幸福こうふくの観念かんねんとが、まるで食くいちがっているような不ふ安あん、自じ分ぶんはその不ふ安あんのために夜よな々よな、転輾てんてんし、呻吟しんぎんし、発はっ狂きょうしかけた事ことさえあります。自じ分ぶんは、いったい幸福こうふくなのでしょうか。自じ分ぶんは小ちいさい時ときから、実じつにしばしば、仕し合あわせ者ものだと人ひとに言いわれて来きましたが、自じ分ぶんではいつも地じ獄ごくの思おもいで、かえって、自じ分ぶんを仕し合あわせ者ものだと言いったひとたちのほうが、比ひ較かくにも何なにもならぬくらいずっとずっと安楽あんらくなように自じ分ぶんには見みえるのです。

自じ分ぶんには、禍わざわいのかたまりが十じゅっ個こあって、その中なかの一いっ個こでも、隣人りんじんが脊せ負おったら、その一いっ個こだけでも充分じゅうぶんに隣人りんじんの生命いのち取とりになるのではあるまいかと、思おもった事ことさえありました。

つまり、わからないのです。隣人りんじんの苦くるしみの性た質ち、程てい度どが、まるで見当けんとうつかないのです。プラクテカル ^[8] な苦くるしみ、ただ、めしを食くえたらそれで解決かいけつできる苦くるしみ、しかし、それこそ最もっとも強つよい苦く痛つうで、自じ分ぶんの例れいの十じゅっ個この禍わざわいなど、吹ふっ飛とんでしまう程ほどの、凄惨せいさんな阿あ鼻び地じ獄ごく ^[9] なのかも知しれない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自じ殺さつもせず、発狂はっきょうもせず、政党せいとうを論ろんじ、絶望ぜつぼうせず、屈くっせず生活せいかつのたたかいを続つづけて行いける、苦くるしくないんじゃないか？　エゴイストになりきって、しかもそれを当然とうぜんの事ことと確信かくしんし、いちども自じ分ぶんを疑うたがった事ことが無ないんじゃないか？　それなら、楽らくだ、しかし、人間にんげんというものは、皆みんなそんなもので、またそれで満点まんてんなのではないかしら、わからない、…… 夜よるはぐっすり眠ねむり、朝あさは爽快そうかいなのかしら、どんな夢ゆめを見みているのだろう、道みちを歩あるきながら何なにを考かんがえているのだろう、金かね？まさか、それだけでも無ないだろう、人間にんげんは、めしを食くうために生いきているのだ、という説せつは聞きいた事ことがあるような気きがするけれども、金かねのために生いきている、という言こと葉ばは、耳みみにした事ことが無ない、いや、しかし、ことに依よると、……いや、それもわからない、… 考かんがえれば考かんがえるほど、自じ分ぶんには、わからなくなり、自じ分ぶんひとり全まったく変かわっているような、不ふ安あんと恐きょう怖ふに襲おそわれるばかりなのです。自じ分ぶんは隣りん人じんと、ほとんど会かい話わが出で来きません。何なにを、どう言いったらいいのか、わからないのです。

そこで考かんがえ出だしたのは、道どう化けでした。

それは、自じ分ぶんの、人間にんげんに対たいする最さい後ごの求愛きゅうあいでした。自じ分ぶんは、人間にんげんを極きょく度どに恐おそれていながら、それでいて、人間にんげんを、どうしても思おもい切きれなかったらしいのです。そうして自じ分ぶんは、この道どう化けの一線いっせんでわずかに人間にんげんにつながる事ことが出で来きたのでした。おもてでは、絶たえず笑え顔がおをつくりながらも、内心ないしんは必死ひっしの、それこそ千せん番ばんに一番いちばんの兼かね合あい ^[10] とでもいうべき危機きき一髪いっぱつの、油あぶら汗あせ流ながしてのサーヴィスでした。

自じ分ぶんは子こ供どもの頃ころから、自じ分ぶんの家か族ぞくの者ものたちに対たいしてさえ、彼かれ等らがどんなに苦くるしく、またどんな事ことを考かんがえて生いきているのか、まるでちっとも見当けんとうつかず、ただおそろしく、その気きまずさに堪たえる事ことが出で来きず、既すでに道どう化けの上じょう手ずになっていました。つまり、自じ分ぶんは、いつのまにやら、一言ひとことも本当ほんとうの事ことを言いわない子こになっていたのです。

その頃ころの、家か族ぞくたちと一いっ緒しょにうつした写しゃ真しんなどを見みると、他ほかの者ものたちは皆みなまじめな顔かおをしているのに、自じ分ぶんひとり、必かならず奇き妙みょうに顔かおをゆがめて笑わらっているのです。これもまた、自じ分ぶんの幼おさなく悲かなしい道どう化けの一種いっしゅでした。

また自じ分ぶんは、肉親にくしんたちに何なにか言いわれて、口くち応ごたえした事ことはいちども有ありませんでした。そのわずかなおこごと ^[11] は、自じ分ぶんには霹靂へきれきの如ごとく強つよく感かんぜられ、狂くるうみたいになり、口応くちごたえどころか、そのおこごとこそ、謂いわば万世一系ばんせいいっけいの人間にんげんの「真しん理り」とかいうものに違ちがいない、自じ分ぶんにはその真しん理りを行おこなう力ちからが無ないのだから、もはや人間にんげんと一緒いっしょに住すめないのではないかしら、と思おもい込こんでしまうのでした。だから自じ分ぶんには、言いい争あらそいも自じ己こ弁解べんかいも出で来きないのでした。人ひとから悪わるく言いわれると、いかにも、もっとも、自じ分ぶんがひどい思おもい違ちがいをしているような気きがして来きて、いつもその攻撃こうげきを黙だまして受うけ、内心ないしん、狂くるうほどの恐きょう怖ふを感かんじました。

それは誰だれでも、人ひとから非ひ難なんせられたり、怒おこられたりしていい気き持もちがするものでは無ないかも知しれませんが、自じ分ぶんは怒おこっている人間にんげんの顔かおに、獅し子しよりも鰐わによりも竜りゅうよりも、もっとおそろしい動物どうぶつの本性ほんしょうを見みるのです。ふだんは、その本性ほんしょうをかくしているようですけれども、何なにかの機き会かいに、たとえば、牛うしが草原そうげんでおっとりした形かたちで寝ねていて、突とつ如じょ、尻尾しっぽでピシッと腹はらの虻あぶを打うち殺ころすみたいに、不ふ意いに人間にんげんのおそろしい正体しょうたいを、怒いかりに依よって暴ばく露ろする様よう子すを見みて、自じ分ぶんはいつも髪かみの逆さか立だつほどの戦慄せんりつを覚おぼえ、この本性ほんしょうもまた人間にんげんの生いきて行いく資し格かくの一ひとつなのかも知しれないと思おもえば、ほとんど自じ分ぶんに絶ぜつ望ぼうを感かんじるのでした。

人間にんげんに対たいして、いつも恐きょう怖ふに震ふるいおののき、また、人間にんげんとしての自じ分ぶんの言動げんどうに、みじんも ^[12] 自じ信しんを持もてず、そうして自じ分ぶんひとりの懊悩おうのうは胸むねの中なかの小こ箱ばこに秘ひめ、その憂鬱ゆううつ、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠かくして、ひたすら無む邪じゃ気きの楽天らくてん性せいを装よそおい、自じ分ぶんはお道どう化けたお変人へんじんとして、次し第だいに完成かんせいされて行いきました。

何なんでもいいから、笑わらわせておればいいのだ、そうすると、人間にんげんたちは、自じ分ぶんが彼かれ等らの所謂いわゆる「生活せいかつ」の外そとにいても、あまりそれを気きにしないのではないかしら、とにかく、彼かれ等ら人間にんげんたちの目め障ざわりになってはいけない、自じ分ぶんは無むだ、風かぜだ、空そらだ、というような思おもいばかりが募つのり、自じ分ぶんはお道どう化けに依よって家か族ぞくを笑わらわせ、また、家か族ぞくよりも、もっと不ふ可か解かいでおそろしい下げ男なんや下げ女じょにまで、必死ひっしのお道どう化けのサーヴィスをしたのです。

自じ分ぶんは夏なつに、浴衣ゆかたの下したに赤あかい毛け糸いとのセエターを着きて廊ろう下かを歩あるき、家うち中じゅうの者ものを笑わらわせました。めったに笑わらわない長ちょう兄けいも、それを見みて噴ふき出だし、「それあ、葉ようちゃん、似に合あわない」と、可か愛わいくてたまらないような口く調ちょうで言いいました。なに、自じ分ぶんだって、真ま夏なつに毛け糸いとのセエターを着きて歩あるくほど、いくら何なんでも、そんな、暑あつさ寒さむさを知しらぬお変人へんじんではありません。姉あねの脚絆レギンスを両りょう腕うでにはめて、浴ゆ衣かたの袖そで口ぐちから覗のぞかせ、以もってセエターを着きているように見みせかけていたのです。

自じ分ぶんの父ちちは、東京とうきょうに用よう事じの多おおいひとでしたので、上うえ野のの桜さくら木ぎ町ちょうに別荘べっそうを持もっていて、月つきの大半たいはんは東京とうきょうのその別荘べっそうで暮くらしていました。そうして帰かえるときには家か族ぞくの者ものたち、また親戚しんせきの者ものたちにまで、実じつにおびただしくお土産みやげを買かって来くるのが、まあ、父ちちの趣しゅ味みみたいなものでした。

いつかの父ちちの上京じょうきょうの前ぜん夜や、父ちちは子こ供どもたちを客間きゃくまに集あつめ、こんど帰かえる時ときには、どんなお土産みやげがいいか、一人ひとり々々ひとりに笑わらいながら尋たずね、それに対たいする子こ供どもたちの答こたえをいちいち手て帖ちょうに書かきとめるのでした。父ちちが、こんなに子こ供どもたちと親したしくするのは、めずらしい事ことでした。

「葉よう蔵ぞうは？」

と聞きかれて、自じ分ぶんは、口くちごもってしまいました。

何なにが欲ほしいと聞きかれると、とたんに、何なにも欲ほしくなくなるのでした。どうでもいい、どうせ自じ分ぶんを楽たのしくさせてくれるものなんか無ないんだという思おもいが、ちらと動うごくのです。と、同どう時じに、人ひとから与あたえられるものを、どんなに自じ分ぶんの好このみに合あわなくても、それを拒こばむ事ことも出で来きませんでした。イヤな事ことを、イヤと言いえず、また、好すきな事ことも、おずおず ^[13] と盗ぬすむように、極きわめてにがく味あじわい、そうして言いい知しれぬ恐きょう怖ふ感かんにもだえるのでした。つまり、自じ分ぶんには、二に者しゃ選せん一いつの力ちからさえ無なかったのです。これが、後年こうねんに到いたり、いよいよ自じ分ぶんの所謂いわゆる「恥はじの多おおい生涯しょうがい」の、重じゅう大だいな原因げんいんともなる性癖せいへきの一ひとつだったように思おもわれます。

自じ分ぶんが黙だまって、もじもじしているので、父ちちはちょっと不ふ機き嫌げんな顔かおになり、

「やはり、本ほんか。浅草あさくさの仲店なかみせにお正しょう月がつの獅し子し舞まいのお獅し子し、子こ供どもがかぶって遊あそぶのには手て頃ごろな大おおきさのが売うっていたけど、欲ほしくないか」

欲ほしくないか、と言いわれると、もうダメなんです。お道どう化けた返へん事じも何なにも出で来きやしないんです。お道どう化け役やく者しゃは、完全かんぜんに落第らくだいでした。

「本ほんが、いいでしょう」

長ちょう兄けいは、まじめな顔かおをして言いいました。

「そうか」

父ちちは、興きょう覚ざめ ^[14] 顔がおに手て帖ちょうに書かきとめもせず、パチと手て帖ちょうを閉とじました。

何なんという失敗しっぱい、自じ分ぶんは父ちちを怒おこらせた、父ちちの復ふく讐しゅうは、きっと、おそるべきものに違ちがいない、いまのうちに何なんとかして取とりかえしのつかぬものか、とその夜よる、蒲ふ団とんの中なかでがたがた震ふるえながら考かんがえ、そっと起おきて客きゃく間まに行いき、父ちちが先刻さっき、手て帖ちょうをしまい込こんだ筈はずの机つくえの引ひき出だしをあけて、手て帖ちょうを取とり上あげ、パラパラめくって、お土産みやげの注文ちゅうもん記き入にゅうの個か所しょを見みつけ、手て帖ちょうの鉛筆えんぴつをなめて、シシマイ、と書かいて寝ねました。自じ分ぶんはその獅し子し舞まいのお獅し子しを、ちっとも欲ほしくは無なかったのです。かえって、本ほんのほうがいいくらいでした。けれども、自じ分ぶんは、父ちちがそのお獅し子しを自じ分ぶんに買かって与あたえたいのだという事ことに気きがつき、父ちちのその意い向こうに迎げい合ごうして、父ちちの機き嫌げんを直なおしたいばかりに、深しん夜や、客きゃく間まに忍しのび込こむという冒険ぼうけんを、敢あえておかしたのでした。

そうして、この自じ分ぶんの非ひ常じょうの手しゅ段だんは、果はたして思おもいどおりの大だい成功せいこうを以もって報むくいられました。やがて、父ちちは東とう京きょうから帰かえって来きて、母ははに大声おおごえで言いっているのを、自じ分ぶんは子こ供ども部べ屋やで聞きいていました。

「仲店なかみせのおもちゃ屋やで、この手て帖ちょうを開ひらいてみたら、これ、ここに、シシマイ、と書かいてある。これは、私わたしの字じではない。はてな？　と首くびをかしげて、思おもい当あたりました。これは、葉よう蔵ぞうのいたずらですよ。あいつは、私わたしが聞きいた時ときには、にやにやして黙だまっていたが、あとで、どうしてもお獅し子しが欲ほしくてたまらなくなったんだね。何なんせ、どうも、あれは、変かわった坊ぼう主ずですからね。知しらん振ぷりして、ちゃんと書かいている。そんなに欲ほしかったのなら、そう言いえばよいのに。私わたしは、おもちゃ屋やの店先みせさきで笑わらいましたよ。葉よう蔵ぞうを早はやくここへ呼よびなさい」

また一方いっぽう、自じ分ぶんは、下げ男なんや下げ女じょたちを洋室ようしつに集あつめて、下げ男なんのひとりに滅め茶ちゃ苦く茶ちゃにピアノのキイをたたかせ、（田舎いなかではありましたが、その家いえには、たいていのものが、そろっていました）自じ分ぶんはその出で鱈たら目めの曲きょくに合あわせて、インデヤンの踊おどりを踊おどって見みせて、皆みなを大おお笑わらいさせました。次じ兄けいは、フラッシュを焚たいて、自じ分ぶんのインデヤン踊おどりを撮影さつえいして、その写しゃ真しんが出で来きたのを見みると、自じ分ぶんの腰こし布ぬの（それは更さら紗さ ^[15] の風ふ呂ろ敷しきでした）の合あわせ目めから、小ちいさいおチンポが見みえていたので、これがまた家うち中じゅうの大おお笑わらいでした。自じ分ぶんにとって、これまた意い外がいの成功せいこうというべきものだったかも知しれません。

自じ分ぶんは毎月まいつき、新刊しんかんの少年しょうねん雑誌ざっしを十じゅっ冊さつ以い上じょうも、とっていて、またその他ほかにも、さまざまの本ほんを東とう京きょうから取とり寄よせて黙だまって読よんでいましたので、メチャラクチャラ博士はかせだの、また、ナンジャモンジャ博士はかせなどとは、たいへんな馴染なじみで、また、怪談かいだん、講談こうだん、落らく語ご、江え戸ど小こ咄ばなしなどの類たぐいにも、かなり通つうじていましたから、剽ひょう軽きんな事ことをまじめな顔かおをして言いって、家うちの者ものたちを笑わらわせるのには事ことを欠かきませんでした。

しかし、嗚あ呼あ、学校がっこう！

自じ分ぶんは、そこでは、尊敬そんけいされかけていたのです。尊敬そんけいされるという観念かんねんもまた、甚はなはだ自じ分ぶんを、おびえさせました。ほとんど完全かんぜんに近ちかく人ひとをだまして、そうして、或あるひとりの全ぜん知ち全ぜん能のうの者ものに見み破やぶられ、木きっ葉ぱみじんにやられて、死しぬる以い上じょうの赤あか恥はじをかかせられる、それが、「尊敬そんけいされる」という状じょう態たいの自じ分ぶんの定てい義ぎでありました。人間にんげんをだまして、「尊敬そんけいされ」ても、誰だれかひとりが知しっている、そうして、人間にんげんたちも、やがて、そのひとりから教おしえられて、だまされた事ことに気きづいた時とき、その時ときの人間にんげんたちの怒いかり、復ふく讐しゅうは、いったい、まあ、どんなでしょうか。想そう像ぞうしてさえ、身みの毛けがよだつ心地ここちがするのです。

自じ分ぶんは、金かね持もちの家いえに生うまれたという事ことよりも、俗ぞくにいう「できる」事ことに依よって、学校がっこう中じゅうの尊敬そんけいを得えそうになりました。自じ分ぶんは、子こ供どもの頃ころから病弱びょうじゃくで、よく一ひとつき二ふたつき、また一いち学年がくねんちかくも寝ね込こんで学校がっこうを休やすんだ事ことさえあったのですが、それでも、病やみ上あがり ^[16] のからだで人じん力りき車しゃに乗のって学校がっこうへ行いき、学年末がくねんまつの試し験けんを受うけてみると、クラスの誰だれよりも所謂いわゆる「できて」いるようでした。からだ具ぐ合あいのよい時ときでも、自じ分ぶんは、さっぱり勉強べんきょうせず、学校がっこうへ行いっても授じゅ業ぎょう時じ間かんに漫まん画がなどを書かき、休憩きゅうけい時じ間かんにはそれをクラスの者ものたちに説明せつめいして聞きかせて、笑わらわせてやりました。また、綴つづり方かた ^[17] には、滑稽噺こっけいばなしばかり書かき、先生せんせいから注ちゅう意いされても、しかし、自じ分ぶんは、やめませんでした。先生せんせいは、実じつはこっそり自じ分ぶんのその滑稽噺こっけいばなしを楽たのしみにしている事ことを自じ分ぶんは、知しっていたからでした。或ある日ひ、自じ分ぶんは、れいに依よって、自じ分ぶんが母ははに連つれられて上京じょうきょうの途と中ちゅうの汽き車しゃで、おしっこを客きゃく車しゃの通つう路ろにある痰壺たんつぼにしてしまった失しっ敗ぱい談だん（しかし、その上京じょうきょうの時ときに、自じ分ぶんは痰壺たんつぼと知しらずにしたのではありませんでした。子こ供どもの無む邪じゃ気きをてらって、わざと、そうしたのでした）を、ことさらに悲かなしそうな筆致ひっちで描えがいて提てい出しゅつし、先生せんせいは、きっと笑わらうという自じ信しんがありましたので、職しょく員いん室しつに引ひき揚あげて行いく先生せんせいのあとを、そっとつけて行いきましたら、先生せんせいは、教きょう室しつを出でるとすぐ、自じ分ぶんのその綴つづり方かたを、他ほかのクラスの者ものたちの綴つづり方かたの中なかから選えらび出だし、廊ろう下かを歩あるきながら読よみはじめて、クスクス笑わらい、やがて職しょく員いん室しつに入はいって読よみ終おえたのか、顔かおを真まっ赤かにして大声おおごえを上あげて笑わらい、他ほかの先生せんせいに、さっそくそれを読よませているのを見みとどけ、自じ分ぶんは、たいへん満まん足ぞくでした。

お茶ちゃ目め ^[18] 。

自じ分ぶんは、所謂いわゆるお茶ちゃ目めにみられる事ことに成功せいこうしました。尊敬そんけいされる事ことから、のがれる事ことに成功せいこうしました。通つう信しん簿ぼは全ぜん学科がっかとも十じゅっ点てんでしたが、操行そうこうというものだけは、七なな点てんだったり、六ろく点てんだったりして、それもまた家うち中じゅうの大おお笑わらいの種たねでした。

けれども自じ分ぶんの本性ほんしょうは、そんなお茶ちゃ目めさんなどとは、凡およそ対蹠たいせき的てき ^[19] なものでした。その頃ころ、既すでに自じ分ぶんは、女じょ中ちゅうや下げ男なんから、哀かなしい事ことを教おしえられ、犯おかされていました。幼よう少しょうの者ものに対たいして、そのような事ことを行おこなうのは、人間にんげんの行おこない得うる犯罪はんざいの中なかで最もっとも醜しゅう悪あくで下か等とうで、残酷ざんこくな犯罪はんざいだと、自じ分ぶんはいまでは思おもっています。しかし、自じ分ぶんは、忍しのびました。これでまた一つ、人間にんげんの特質とくしつを見みたというような気き持もちさえして、そうして、力ちから無なく笑わらっていました。もし自じ分ぶんに、本当ほんとうの事ことを言いう習慣しゅうかんがついていたなら、悪わるびれず、彼かれらの犯罪はんざいを父ちちや母ははに訴うったえる事ことが出で来きたのかも知しれませんが、しかし、自じ分ぶんは、その父ちちや母ははをも全ぜん部ぶは理り解かいする事ことが出で来きなかったのです。人間にんげんに訴うったえる、自じ分ぶんは、その手しゅ段だんには少すこしも期き待たいできませんでした。父ちちに訴うったえても、母ははに訴うったえても、お巡まわりに訴うったえても、政せい府ふに訴うったえても、結局けっきょくは世よ渡わたりに強つよい人ひとの、世せ間けんに通とおりのいい言いいぶんに言いいまく ^[20] られるだけの事ことでは無ないかしら。

必かならず片かた手て落おち ^[21] のあるのが、わかり切きっている、所しょ詮せん、人間にんげんに訴うったえるのは無む駄だである、自じ分ぶんはやはり、本当ほんとうの事ことは何なにも言いわず、忍しのんで、そうしてお道どう化けをつづけているより他ほか、無ない気き持もちなのでした。

なんだ、人間にんげんへの不ふ信しんを言いっているのか？へえ？お前まえはいつクリスチャンになったんだい、と嘲笑ちょうしょうする人ひとも或あるいはあるかも知しれませんが、しかし、人間にんげんへの不ふ信しんは、必かならずしもすぐに宗教しゅうきょうの道みちに通つうじているとは限かぎらないと、自じ分ぶんには思おもわれるのですけど。現げんにその嘲笑ちょうしょうする人ひとをも含ふくめて、人間にんげんは、お互たがいの不ふ信しんの中なかで、エホバも何なにも念頭ねんとうに置おかず、平へい気きで生いきているではありませんか。やはり、自じ分ぶんの幼少ようしょうの頃ころの事ことでありましたが、父ちちの属ぞくしていた或ある政党せいとうの有名人ゆうめいじんが、この町まちに演説えんぜつに来きて、自じ分ぶんは下げ男なんたちに連つれられて劇げき場じょうに聞ききに行いきました。演説えんぜつで、そうして、この町まちの特とくに父ちちと親したしくしている人ひとたちの顔かおは皆みな、見みえて、大おおいに拍はく手しゅなどしていました。演説えんぜつがすんで、聴ちょう衆しゅうは雪ゆきの夜よ道みちを三さん々さん五ご々ごかたまって家いえ路じにつき、クソミソに今こん夜やの演説えんぜつ会かいの悪口わるぐちを言いっているのでした。中なかには、父ちちと特とくに親したしい人ひとの声こえもまじっていました。父ちちの開会かいかいの辞じも下へ手た、れいの有名人ゆうめいじんの演説えんぜつも何なにが何なにやら、わけがわからぬ、とその所謂いわゆる父ちちの「同どう志したち」が怒ど声せいに似にた口く調ちょうで言いっているのです。そうしてそのひとたちは、自じ分ぶんの家いえに立たち寄よって客きゃく間まに上のぼり込こみ、今こん夜やの演説えんぜつ会かいは大だい成功せいこうだったと、しんから嬉うれしそうな顔かおをして父ちちに言いっていました。下げ男なんたちまで、今こん夜やの演説えんぜつ会かいはどうだったと母ははに聞きかれ、とても面白おもしろかった、と言いってけろり ^[22] としているのです。演説えんぜつ会かいほど面白おもしろくないものはない、と帰かえる途々みちみち、下げ男なんたちが嘆なげき合あっていたのです。

しかし、こんなのは、ほんのささやかな一例いちれいに過すぎません。互たがいにあざむき合あって、しかもいずれも不ふ思し議ぎに何なんの傷きずもつかず、あざむき合あっている事ことにさえ気きがついていないみたいな、実じつにあざやかな、それこそ清きよく明あかるくほがらかな不ふ信しんの例れいが、人間にんげんの生活せいかつに充満じゅうまんしているように思おもわれます。けれども、自じ分ぶんには、あざむき合あっているという事ことには、さして ^[23] 特別とくべつの興きょう味みもありません。自じ分ぶんだって、お道どう化けに依よって、朝あさから晩ばんまで人間にんげんをあざむいているのです。自じ分ぶんは、修しゅう身しん教科書きょうかしょ的てきな正せい義ぎとか何なんとかいう道徳どうとくには、あまり関心かんしんを持もてないのです。自じ分ぶんには、あざむき合あっていながら、清きよく明あかるく朗ほがらかに生いきている、或あるいは生いき得うる自じ信しんを持もっているみたいな人にん間げんが難なん解かいなのです。人間にんげんは、ついに自じ分ぶんにその妙みょう諦ていを教おしえてはくれませんでした。それさえわかったら、自じ分ぶんは、人間にんげんをこんなに恐きょう怖ふし、また、必ひっ死しのサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。人間にんげんの生活せいかつと対立たいりつしてしまって、夜よな々よなの地じ獄ごくのこれほどの苦くるしみを嘗なめずにすんだのでしょう。つまり、自じ分ぶんが下げ男なん下げ女じょたちの憎にくむべきあの犯罪はんざいをさえ、誰だれにも訴うったえなかったのは、人間にんげんへの不ふ信しんからではなく、また勿論もちろんクリスト主しゅ義ぎのためでもなく、人間にんげんが、葉よう蔵ぞうという自じ分ぶんに対たいして信用しんようの殻からを固かたく閉とじていたからだったと思おもいます。父ふ母ぼでさえ、自じ分ぶんにとって難解なんかいなものを、時折ときおり、見みせる事ことがあったのですから。