恥 の 多 い 生 涯 を 送 って 来 ました。
自 分 には、 人間 の 生活 というものが、 見当 つかない [1] のです。 自 分 は 東北 の 田舎 に 生 れましたので、 汽 車 をはじめて 見 たのは、よほど 大 きくなってからでした。 自 分 は 停 車 場 のブリッジを、 上 って、 降 りて、そうしてそれが 線 路 をまたぎ 越 えるために 造 られたものだという 事 には 全然 気 づかず、ただそれは 停 車 場 の 構内 を 外国 の 遊 戯 場 みたいに、 複雑 に 楽 しく、ハイカラ [2] にするためにのみ、 設 備 せられてあるものだとばかり 思 っていました。しかも、かなり 永 い 間 そう 思 っていたのです。ブリッジの 上 ったり 降 りたりは、 自 分 にはむしろ、ずいぶん 垢 抜 け [3] のした 遊 戯 で、それは 鉄道 のサーヴィスの 中 でも、 最 も 気 のきいたサーヴィスの 一 つだと 思 っていたのですが、のちにそれはただ 旅 客 が 線 路 をまたぎ 越 えるための 頗 る 実 利 的 な 階段 に 過 ぎないのを 発見 して、にわかに 興 が 覚 めました。
また、 自 分 は 子 供 の 頃 、 絵 本 で 地 下 鉄道 というものを 見 て、これもやはり、 実 利 的 な 必要 から 案 出 せられたものではなく、 地 上 の 車 に 乗 るよりは、 地 下 の 車 に 乗 ったほうが 風 がわり [4] で 面 白 い 遊 びだから、とばかり 思 っていました。
自 分 は 子 供 の 頃 から 病弱 で、よく 寝 込 みましたが、 寝 ながら、 敷 布 、 枕 のカヴァ、 掛 蒲 団 のカヴァを、つくづく、つまらない 装飾 だと 思 い、それが 案外 に 実用品 だった 事 を、 二 十 歳 ちかくになってわかって、 人間 のつましさに 暗然 とし、 悲 しい 思 いをしました。
また、 自 分 は、 空腹 という 事 を 知 りませんでした。いや、それは、 自 分 が 衣 食 住 に 困 らない 家 に 育 ったという 意 味 ではなく、そんな 馬 鹿 な 意 味 ではなく、 自 分 には「 空腹 」という 感覚 はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな 言 いかたですが、おなかが 空 いていても、 自 分 でそれに 気 がつかないのです。 学 校 、 中 学 校 、 自 分 が 学校 から 帰 って 来 ると、 周 囲 の 人 たちが、それ、おなかが 空 いたろう、 自 分 たちにも 覚 えがある、 学校 から 帰 って 来 た 時 の 空腹 は 全 くひどいからな、 甘 納 豆 はどう?カステラも、パンもあるよ、などと 言 って 騒 ぎますので、 自 分 は 持 ち 前 [5] のおべっか 精神 を 発 揮 して、おなかが 空 いた、と 呟 いて、 甘 納 豆 を 十 粒 ばかり 口 にほうり 込 むのですが、 空腹感 とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。
自 分 だって、それは 勿論 、 大 いにものを 食 べますが、しかし、 空腹感 から、ものを 食 べた 記 憶 は、ほとんどありません。めずらしいと 思 われたものを 食 べます。 豪 華 と 思 われたものを 食 べます。また、よそへ 行 って 出 されたものも、 無 理 をしてまで、たいてい 食 べます。そうして、 子 供 の 頃 の 自 分 にとって、 最 も 苦 痛 な 時 刻 は、 実 に、 自 分 の 家 の 食 事 の 時 間 でした。
自 分 の 田舎 の 家 では、 十 人 くらいの 家 族 全 部 、めいめいのお 膳 [6] を 二 列 に 向 い 合 わせに 並 べて、 末 っ 子 の 自 分 は、もちろん 一 ばん 下 の 座 でしたが、その 食 事 の 部 屋 は 薄 暗 く、 昼 ごはんの 時 など、 十 幾 人 の 家 族 が、ただ 黙 々 としてめしを 食 っている 有様 には、 自 分 はいつも 肌 寒 い [7] 思 いをしました。それに 田舎 の 昔 気質 の 家 でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、 豪 華 なもの、そんなものは 望 むべくもなかったので、いよいよ 自 分 は 食 事 の 時 刻 を 恐 怖 しました。 自 分 はその 薄 暗 い 部 屋 の 末 席 に、 寒 さにがたがた 震 える 思 いで 口 にごはんを 少量 ずつ 運 び、 押 し 込 み、 人 間 は、どうして 一 日 に 三 度 々 々 ごはんを 食 べるのだろう、 実 にみな 厳粛 な 顔 をして 食 べている、これも 一種 の 儀 式 のようなもので、 家 族 が 日 に 三 度 々 々 、 時 刻 をきめて 薄 暗 く 一 部 屋 に 集 まり、お 膳 を 順 序 正 しく 並 べ、 食 べたくなくても 無 言 でごはんを 噛 ながら、うつむき、 家 中 にうごめいている 霊 たちに 祈 るためのものかも 知 れない、とさえ 考 えた 事 があるくらいでした。
めしを 食 べなければ 死 ぬ、という 言 葉 は、 自 分 の 耳 には、ただイヤなおどかしとしか 聞 えませんでした。その 迷信 は、(いまでも 自 分 には、 何 だか 迷信 のように 思 われてならないのですが)しかし、いつも 自 分 に 不 安 と 恐 怖 を 与 えました。 人 間 は、めしを 食 べなければ 死 ぬから、そのために 働 いて、めしを 食 べなければならぬ、という 言 葉 ほど 自 分 にとって 難解 で 晦渋 で、そうして 脅迫 めいた 響 きを 感 じさせる 言 葉 は、 無 かったのです。
つまり 自 分 には、 人間 の 営 みというものが 未 だに 何 もわかっていない、という 事 になりそうです。 自 分 の 幸福 の 観念 と、 世 のすべての 人 たちの 幸福 の 観念 とが、まるで 食 いちがっているような 不 安 、 自 分 はその 不 安 のために 夜 々 、 転輾 し、 呻吟 し、 発 狂 しかけた 事 さえあります。 自 分 は、いったい 幸福 なのでしょうか。 自 分 は 小 さい 時 から、 実 にしばしば、 仕 合 せ 者 だと 人 に 言 われて 来 ましたが、 自 分 ではいつも 地 獄 の 思 いで、かえって、 自 分 を 仕 合 せ 者 だと 言 ったひとたちのほうが、 比 較 にも 何 もならぬくらいずっとずっと 安楽 なように 自 分 には 見 えるのです。
自 分 には、 禍 いのかたまりが 十 個 あって、その 中 の 一 個 でも、 隣人 が 脊 負 ったら、その 一 個 だけでも 充分 に 隣人 の 生命 取 りになるのではあるまいかと、 思 った 事 さえありました。
つまり、わからないのです。 隣人 の 苦 しみの 性 質 、 程 度 が、まるで 見当 つかないのです。プラクテカル [8] な 苦 しみ、ただ、めしを 食 えたらそれで 解決 できる 苦 しみ、しかし、それこそ 最 も 強 い 苦 痛 で、 自 分 の 例 の 十 個 の 禍 いなど、 吹 っ 飛 んでしまう 程 の、 凄惨 な 阿 鼻 地 獄 [9] なのかも 知 れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく 自 殺 もせず、 発狂 もせず、 政党 を 論 じ、 絶望 せず、 屈 せず 生活 のたたかいを 続 けて 行 ける、 苦 しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを 当然 の 事 と 確信 し、いちども 自 分 を 疑 った 事 が 無 いんじゃないか? それなら、 楽 だ、しかし、 人間 というものは、 皆 そんなもので、またそれで 満点 なのではないかしら、わからない、…… 夜 はぐっすり 眠 り、 朝 は 爽快 なのかしら、どんな 夢 を 見 ているのだろう、 道 を 歩 きながら 何 を 考 えているのだろう、 金 ?まさか、それだけでも 無 いだろう、 人間 は、めしを 食 うために 生 きているのだ、という 説 は 聞 いた 事 があるような 気 がするけれども、 金 のために 生 きている、という 言 葉 は、 耳 にした 事 が 無 い、いや、しかし、ことに 依 ると、……いや、それもわからない、… 考 えれば 考 えるほど、 自 分 には、わからなくなり、 自 分 ひとり 全 く 変 っているような、 不 安 と 恐 怖 に 襲 われるばかりなのです。 自 分 は 隣 人 と、ほとんど 会 話 が 出 来 ません。 何 を、どう 言 ったらいいのか、わからないのです。
そこで 考 え 出 したのは、 道 化 でした。
それは、 自 分 の、 人間 に 対 する 最 後 の 求愛 でした。 自 分 は、 人間 を 極 度 に 恐 れていながら、それでいて、 人間 を、どうしても 思 い 切 れなかったらしいのです。そうして 自 分 は、この 道 化 の 一線 でわずかに 人間 につながる 事 が 出 来 たのでした。おもてでは、 絶 えず 笑 顔 をつくりながらも、 内心 は 必死 の、それこそ 千 番 に 一番 の 兼 ね 合 い [10] とでもいうべき 危機 一髪 の、 油 汗 流 してのサーヴィスでした。
自 分 は 子 供 の 頃 から、 自 分 の 家 族 の 者 たちに 対 してさえ、 彼 等 がどんなに 苦 しく、またどんな 事 を 考 えて 生 きているのか、まるでちっとも 見当 つかず、ただおそろしく、その 気 まずさに 堪 える 事 が 出 来 ず、 既 に 道 化 の 上 手 になっていました。つまり、 自 分 は、いつのまにやら、 一言 も 本当 の 事 を 言 わない 子 になっていたのです。
その 頃 の、 家 族 たちと 一 緒 にうつした 写 真 などを 見 ると、 他 の 者 たちは 皆 まじめな 顔 をしているのに、 自 分 ひとり、 必 ず 奇 妙 に 顔 をゆがめて 笑 っているのです。これもまた、 自 分 の 幼 く 悲 しい 道 化 の 一種 でした。
また 自 分 は、 肉親 たちに 何 か 言 われて、 口 応 した 事 はいちども 有 りませんでした。そのわずかなおこごと [11] は、 自 分 には 霹靂 の 如 く 強 く 感 ぜられ、 狂 うみたいになり、 口応 えどころか、そのおこごとこそ、 謂 わば 万世一系 の 人間 の「 真 理 」とかいうものに 違 いない、 自 分 にはその 真 理 を 行 う 力 が 無 いのだから、もはや 人間 と 一緒 に 住 めないのではないかしら、と 思 い 込 んでしまうのでした。だから 自 分 には、 言 い 争 いも 自 己 弁解 も 出 来 ないのでした。 人 から 悪 く 言 われると、いかにも、もっとも、 自 分 がひどい 思 い 違 いをしているような 気 がして 来 て、いつもその 攻撃 を 黙 して 受 け、 内心 、 狂 うほどの 恐 怖 を 感 じました。
それは 誰 でも、 人 から 非 難 せられたり、 怒 られたりしていい 気 持 がするものでは 無 いかも 知 れませんが、 自 分 は 怒 っている 人間 の 顔 に、 獅 子 よりも 鰐 よりも 竜 よりも、もっとおそろしい 動物 の 本性 を 見 るのです。ふだんは、その 本性 をかくしているようですけれども、 何 かの 機 会 に、たとえば、 牛 が 草原 でおっとりした 形 で 寝 ていて、 突 如 、 尻尾 でピシッと 腹 の 虻 を 打 ち 殺 すみたいに、 不 意 に 人間 のおそろしい 正体 を、 怒 りに 依 って 暴 露 する 様 子 を 見 て、 自 分 はいつも 髪 の 逆 立 つほどの 戦慄 を 覚 え、この 本性 もまた 人間 の 生 きて 行 く 資 格 の 一 つなのかも 知 れないと 思 えば、ほとんど 自 分 に 絶 望 を 感 じるのでした。
人間 に 対 して、いつも 恐 怖 に 震 いおののき、また、 人間 としての 自 分 の 言動 に、みじんも [12] 自 信 を 持 てず、そうして 自 分 ひとりの 懊悩 は 胸 の 中 の 小 箱 に 秘 め、その 憂鬱 、ナアヴァスネスを、ひたかくしに 隠 して、ひたすら 無 邪 気 の 楽天 性 を 装 い、 自 分 はお 道 化 たお 変人 として、 次 第 に 完成 されて 行 きました。
何 でもいいから、 笑 わせておればいいのだ、そうすると、 人間 たちは、 自 分 が 彼 等 の 所謂 「 生活 」の 外 にいても、あまりそれを 気 にしないのではないかしら、とにかく、 彼 等 人間 たちの 目 障 りになってはいけない、 自 分 は 無 だ、 風 だ、 空 だ、というような 思 いばかりが 募 り、 自 分 はお 道 化 に 依 って 家 族 を 笑 わせ、また、 家 族 よりも、もっと 不 可 解 でおそろしい 下 男 や 下 女 にまで、 必死 のお 道 化 のサーヴィスをしたのです。
自 分 は 夏 に、 浴衣 の 下 に 赤 い 毛 糸 のセエターを 着 て 廊 下 を 歩 き、 家 中 の 者 を 笑 わせました。めったに 笑 わない 長 兄 も、それを 見 て 噴 き 出 し、「それあ、 葉 ちゃん、 似 合 わない」と、 可 愛 くてたまらないような 口 調 で 言 いました。なに、 自 分 だって、 真 夏 に 毛 糸 のセエターを 着 て 歩 くほど、いくら 何 でも、そんな、 暑 さ 寒 さを 知 らぬお 変人 ではありません。 姉 の 脚絆 を 両 腕 にはめて、 浴 衣 の 袖 口 から 覗 かせ、 以 ってセエターを 着 ているように 見 せかけていたのです。
自 分 の 父 は、 東京 に 用 事 の 多 いひとでしたので、 上 野 の 桜 木 町 に 別荘 を 持 っていて、 月 の 大半 は 東京 のその 別荘 で 暮 らしていました。そうして 帰 るときには 家 族 の 者 たち、また 親戚 の 者 たちにまで、 実 におびただしくお 土産 を 買 って 来 るのが、まあ、 父 の 趣 味 みたいなものでした。
いつかの 父 の 上京 の 前 夜 、 父 は 子 供 たちを 客間 に 集 め、こんど 帰 る 時 には、どんなお 土産 がいいか、 一人 々々 に 笑 いながら 尋 ね、それに 対 する 子 供 たちの 答 をいちいち 手 帖 に 書 きとめるのでした。 父 が、こんなに 子 供 たちと 親 しくするのは、めずらしい 事 でした。
「 葉 蔵 は?」
と 聞 かれて、 自 分 は、 口 ごもってしまいました。
何 が 欲 しいと 聞 かれると、とたんに、 何 も 欲 しくなくなるのでした。どうでもいい、どうせ 自 分 を 楽 しくさせてくれるものなんか 無 いんだという 思 いが、ちらと 動 くのです。と、 同 時 に、 人 から 与 えられるものを、どんなに 自 分 の 好 みに 合 わなくても、それを 拒 む 事 も 出 来 ませんでした。イヤな 事 を、イヤと 言 えず、また、 好 きな 事 も、おずおず [13] と 盗 むように、 極 めてにがく 味 わい、そうして 言 い 知 れぬ 恐 怖 感 にもだえるのでした。つまり、 自 分 には、 二 者 選 一 の 力 さえ 無 かったのです。これが、 後年 に 到 り、いよいよ 自 分 の 所謂 「 恥 の 多 い 生涯 」の、 重 大 な 原因 ともなる 性癖 の 一 つだったように 思 われます。
自 分 が 黙 って、もじもじしているので、 父 はちょっと 不 機 嫌 な 顔 になり、
「やはり、 本 か。 浅草 の 仲店 にお 正 月 の 獅 子 舞 いのお 獅 子 、 子 供 がかぶって 遊 ぶのには 手 頃 な 大 きさのが 売 っていたけど、 欲 しくないか」
欲 しくないか、と 言 われると、もうダメなんです。お 道 化 た 返 事 も 何 も 出 来 やしないんです。お 道 化 役 者 は、 完全 に 落第 でした。
「 本 が、いいでしょう」
長 兄 は、まじめな 顔 をして 言 いました。
「そうか」
父 は、 興 覚 め [14] 顔 に 手 帖 に 書 きとめもせず、パチと 手 帖 を 閉 じました。
何 という 失敗 、 自 分 は 父 を 怒 らせた、 父 の 復 讐 は、きっと、おそるべきものに 違 いない、いまのうちに 何 とかして 取 りかえしのつかぬものか、とその 夜 、 蒲 団 の 中 でがたがた 震 えながら 考 え、そっと 起 きて 客 間 に 行 き、 父 が 先刻 、 手 帖 をしまい 込 んだ 筈 の 机 の 引 き 出 しをあけて、 手 帖 を 取 り 上 げ、パラパラめくって、お 土産 の 注文 記 入 の 個 所 を 見 つけ、 手 帖 の 鉛筆 をなめて、シシマイ、と 書 いて 寝 ました。 自 分 はその 獅 子 舞 いのお 獅 子 を、ちっとも 欲 しくは 無 かったのです。かえって、 本 のほうがいいくらいでした。けれども、 自 分 は、 父 がそのお 獅 子 を 自 分 に 買 って 与 えたいのだという 事 に 気 がつき、 父 のその 意 向 に 迎 合 して、 父 の 機 嫌 を 直 したいばかりに、 深 夜 、 客 間 に 忍 び 込 むという 冒険 を、 敢 えておかしたのでした。
そうして、この 自 分 の 非 常 の 手 段 は、 果 して 思 いどおりの 大 成功 を 以 て 報 いられました。やがて、 父 は 東 京 から 帰 って 来 て、 母 に 大声 で 言 っているのを、 自 分 は 子 供 部 屋 で 聞 いていました。
「 仲店 のおもちゃ 屋 で、この 手 帖 を 開 いてみたら、これ、ここに、シシマイ、と 書 いてある。これは、 私 の 字 ではない。はてな? と 首 をかしげて、 思 い 当 りました。これは、 葉 蔵 のいたずらですよ。あいつは、 私 が 聞 いた 時 には、にやにやして 黙 っていたが、あとで、どうしてもお 獅 子 が 欲 しくてたまらなくなったんだね。 何 せ、どうも、あれは、 変 った 坊 主 ですからね。 知 らん 振 りして、ちゃんと 書 いている。そんなに 欲 しかったのなら、そう 言 えばよいのに。 私 は、おもちゃ 屋 の 店先 で 笑 いましたよ。 葉 蔵 を 早 くここへ 呼 びなさい」
また 一方 、 自 分 は、 下 男 や 下 女 たちを 洋室 に 集 めて、 下 男 のひとりに 滅 茶 苦 茶 にピアノのキイをたたかせ、( 田舎 ではありましたが、その 家 には、たいていのものが、そろっていました) 自 分 はその 出 鱈 目 の 曲 に 合 わせて、インデヤンの 踊 りを 踊 って 見 せて、 皆 を 大 笑 いさせました。 次 兄 は、フラッシュを 焚 いて、 自 分 のインデヤン 踊 りを 撮影 して、その 写 真 が 出 来 たのを 見 ると、 自 分 の 腰 布 (それは 更 紗 [15] の 風 呂 敷 でした)の 合 せ 目 から、 小 さいおチンポが 見 えていたので、これがまた 家 中 の 大 笑 いでした。 自 分 にとって、これまた 意 外 の 成功 というべきものだったかも 知 れません。
自 分 は 毎月 、 新刊 の 少年 雑誌 を 十 冊 以 上 も、とっていて、またその 他 にも、さまざまの 本 を 東 京 から 取 り 寄 せて 黙 って 読 んでいましたので、メチャラクチャラ 博士 だの、また、ナンジャモンジャ 博士 などとは、たいへんな 馴染 で、また、 怪談 、 講談 、 落 語 、 江 戸 小 咄 などの 類 にも、かなり 通 じていましたから、 剽 軽 な 事 をまじめな 顔 をして 言 って、 家 の 者 たちを 笑 わせるのには 事 を 欠 きませんでした。
しかし、 嗚 呼 、 学校 !
自 分 は、そこでは、 尊敬 されかけていたのです。 尊敬 されるという 観念 もまた、 甚 自 分 を、おびえさせました。ほとんど 完全 に 近 く 人 をだまして、そうして、 或 るひとりの 全 知 全 能 の 者 に 見 破 られ、 木 っ 葉 みじんにやられて、 死 ぬる 以 上 の 赤 恥 をかかせられる、それが、「 尊敬 される」という 状 態 の 自 分 の 定 義 でありました。 人間 をだまして、「 尊敬 され」ても、 誰 かひとりが 知 っている、そうして、 人間 たちも、やがて、そのひとりから 教 えられて、だまされた 事 に 気 づいた 時 、その 時 の 人間 たちの 怒 り、 復 讐 は、いったい、まあ、どんなでしょうか。 想 像 してさえ、 身 の 毛 がよだつ 心地 がするのです。
自 分 は、 金 持 ちの 家 に 生 まれたという 事 よりも、 俗 にいう「できる」 事 に 依 って、 学校 中 の 尊敬 を 得 そうになりました。 自 分 は、 子 供 の 頃 から 病弱 で、よく 一 つき 二 つき、また 一 学年 ちかくも 寝 込 んで 学校 を 休 んだ 事 さえあったのですが、それでも、 病 み 上 がり [16] のからだで 人 力 車 に 乗 って 学校 へ 行 き、 学年末 の 試 験 を 受 けてみると、クラスの 誰 よりも 所謂 「できて」いるようでした。からだ 具 合 のよい 時 でも、 自 分 は、さっぱり 勉強 せず、 学校 へ 行 っても 授 業 時 間 に 漫 画 などを 書 き、 休憩 時 間 にはそれをクラスの 者 たちに 説明 して 聞 かせて、 笑 わせてやりました。また、 綴 り 方 [17] には、 滑稽噺 ばかり 書 き、 先生 から 注 意 されても、しかし、 自 分 は、やめませんでした。 先生 は、 実 はこっそり 自 分 のその 滑稽噺 を 楽 しみにしている 事 を 自 分 は、 知 っていたからでした。 或 る 日 、 自 分 は、れいに 依 って、 自 分 が 母 に 連 れられて 上京 の 途 中 の 汽 車 で、おしっこを 客 車 の 通 路 にある 痰壺 にしてしまった 失 敗 談 (しかし、その 上京 の 時 に、 自 分 は 痰壺 と 知 らずにしたのではありませんでした。 子 供 の 無 邪 気 をてらって、わざと、そうしたのでした)を、ことさらに 悲 しそうな 筆致 で 描 いて 提 出 し、 先生 は、きっと 笑 うという 自 信 がありましたので、 職 員 室 に 引 き 揚 げて 行 く 先生 のあとを、そっとつけて 行 きましたら、 先生 は、 教 室 を 出 るとすぐ、 自 分 のその 綴 り 方 を、 他 のクラスの 者 たちの 綴 り 方 の 中 から 選 び 出 し、 廊 下 を 歩 きながら 読 みはじめて、クスクス 笑 い、やがて 職 員 室 に 入 って 読 み 終 えたのか、 顔 を 真 赤 にして 大声 を 上 げて 笑 い、 他 の 先生 に、さっそくそれを 読 ませているのを 見 とどけ、 自 分 は、たいへん 満 足 でした。
お 茶 目 [18] 。
自 分 は、 所謂 お 茶 目 にみられる 事 に 成功 しました。 尊敬 される 事 から、のがれる 事 に 成功 しました。 通 信 簿 は 全 学科 とも 十 点 でしたが、 操行 というものだけは、 七 点 だったり、 六 点 だったりして、それもまた 家 中 の 大 笑 いの 種 でした。
けれども 自 分 の 本性 は、そんなお 茶 目 さんなどとは、 凡 そ 対蹠 的 [19] なものでした。その 頃 、 既 に 自 分 は、 女 中 や 下 男 から、 哀 しい 事 を 教 えられ、 犯 されていました。 幼 少 の 者 に 対 して、そのような 事 を 行 うのは、 人間 の 行 い 得 る 犯罪 の 中 で 最 も 醜 悪 で 下 等 で、 残酷 な 犯罪 だと、 自 分 はいまでは 思 っています。しかし、 自 分 は、 忍 びました。これでまた一つ、 人間 の 特質 を 見 たというような 気 持 さえして、そうして、 力 無 く 笑 っていました。もし 自 分 に、 本当 の 事 を 言 う 習慣 がついていたなら、 悪 びれず、 彼 らの 犯罪 を 父 や 母 に 訴 える 事 が 出 来 たのかも 知 れませんが、しかし、 自 分 は、その 父 や 母 をも 全 部 は 理 解 する 事 が 出 来 なかったのです。 人間 に 訴 える、 自 分 は、その 手 段 には 少 しも 期 待 できませんでした。 父 に 訴 えても、 母 に 訴 えても、お 巡 りに 訴 えても、 政 府 に 訴 えても、 結局 は 世 渡 りに 強 い 人 の、 世 間 に 通 りのいい 言 いぶんに 言 いまく [20] られるだけの 事 では 無 いかしら。
必 ず 片 手 落 [21] のあるのが、わかり 切 っている、 所 詮 、 人間 に 訴 えるのは 無 駄 である、 自 分 はやはり、 本当 の 事 は 何 も 言 わず、 忍 んで、そうしてお 道 化 をつづけているより 他 、 無 い 気 持 なのでした。
なんだ、 人間 への 不 信 を 言 っているのか?へえ?お 前 はいつクリスチャンになったんだい、と 嘲笑 する 人 も 或 いはあるかも 知 れませんが、しかし、 人間 への 不 信 は、 必 ずしもすぐに 宗教 の 道 に 通 じているとは 限 らないと、 自 分 には 思 われるのですけど。 現 にその 嘲笑 する 人 をも 含 めて、 人間 は、お 互 いの 不 信 の 中 で、エホバも 何 も 念頭 に 置 かず、 平 気 で 生 きているではありませんか。やはり、 自 分 の 幼少 の 頃 の 事 でありましたが、 父 の 属 していた 或 る 政党 の 有名人 が、この 町 に 演説 に 来 て、 自 分 は 下 男 たちに 連 れられて 劇 場 に 聞 きに 行 きました。 演説 で、そうして、この 町 の 特 に 父 と 親 しくしている 人 たちの 顔 は 皆 、 見 えて、 大 いに 拍 手 などしていました。 演説 がすんで、 聴 衆 は 雪 の 夜 道 を 三 々 五 々 かたまって 家 路 につき、クソミソに 今 夜 の 演説 会 の 悪口 を 言 っているのでした。 中 には、 父 と 特 に 親 しい 人 の 声 もまじっていました。 父 の 開会 の 辞 も 下 手 、れいの 有名人 の 演説 も 何 が 何 やら、わけがわからぬ、とその 所謂 父 の「 同 志 たち」が 怒 声 に 似 た 口 調 で 言 っているのです。そうしてそのひとたちは、 自 分 の 家 に 立 ち 寄 って 客 間 に 上 り 込 み、 今 夜 の 演説 会 は 大 成功 だったと、しんから 嬉 しそうな 顔 をして 父 に 言 っていました。 下 男 たちまで、 今 夜 の 演説 会 はどうだったと 母 に 聞 かれ、とても 面白 かった、と 言 ってけろり [22] としているのです。 演説 会 ほど 面白 くないものはない、と 帰 る 途々 、 下 男 たちが 嘆 き 合 っていたのです。
しかし、こんなのは、ほんのささやかな 一例 に 過 ぎません。 互 いにあざむき 合 って、しかもいずれも 不 思 議 に 何 の 傷 もつかず、あざむき 合 っている 事 にさえ 気 がついていないみたいな、 実 にあざやかな、それこそ 清 く 明 るくほがらかな 不 信 の 例 が、 人間 の 生活 に 充満 しているように 思 われます。けれども、 自 分 には、あざむき 合 っているという 事 には、さして [23] 特別 の 興 味 もありません。 自 分 だって、お 道 化 に 依 って、 朝 から 晩 まで 人間 をあざむいているのです。 自 分 は、 修 身 教科書 的 な 正 義 とか 何 とかいう 道徳 には、あまり 関心 を 持 てないのです。 自 分 には、あざむき 合 っていながら、 清 く 明 るく 朗 らかに 生 きている、 或 いは 生 き 得 る 自 信 を 持 っているみたいな 人 間 が 難 解 なのです。 人間 は、ついに 自 分 にその 妙 諦 を 教 えてはくれませんでした。それさえわかったら、 自 分 は、 人間 をこんなに 恐 怖 し、また、 必 死 のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。 人間 の 生活 と 対立 してしまって、 夜 々 の 地 獄 のこれほどの 苦 しみを 嘗 めずにすんだのでしょう。つまり、 自 分 が 下 男 下 女 たちの 憎 むべきあの 犯罪 をさえ、 誰 にも 訴 えなかったのは、 人間 への 不 信 からではなく、また 勿論 クリスト 主 義 のためでもなく、 人間 が、 葉 蔵 という 自 分 に 対 して 信用 の 殻 を 固 く 閉 じていたからだったと 思 います。 父 母 でさえ、 自 分 にとって 難解 なものを、 時折 、 見 せる 事 があったのですから。
そうして、その、 誰 にも 訴 えない、 自 分 の 孤 独 の 匂 いが、 多 くの 女 性 に、 本能 に 依 って 嗅 ぎ 当 てられ、 後年 さまざま、 自 分 がつけ 込 まれる 誘 因 の 一 つになったような 気 もするのです。
つまり、 自 分 は、 女 性 にとって、 恋 の 秘 密 を 守 れる 男 であったというわけなのでした。
[1] 見当 つかない:没有目标,没有头绪
[2] ハイカラ 【名·形2】:时髦(的人),洋气(的人)
[3] 垢 抜 け 【名】:不土气;俏皮
[4] 風 がわり 【名·形2】:与众不同;古怪
[5] 持 ち 前 【名】:天性,秉性;天生
[6] お 膳 【名】:食案,小饭桌
[7] 肌 寒 い 【形1】:凉飕飕的,有凉意的
[8] プラクテカル(プラクティカル) 【形2】:实际上的,应用的
[9] 阿 鼻 地 獄 【名】:出自梵语,八大地狱之一,也称“无间地狱”
[10] 千 番 に 一 番 の 兼 ね 合 い:尝试一千次也未必成功一次的程度,形容极其困难
[11] こごと 【名·动3】:申诉;责备;怨言
[12] みじんも 【副】:一点儿也……,丝毫也……
[13] おずおず 【副】:胆怯;害怕
[14] 興 覚 ざめ 【形2】:扫兴,败兴,兴致全无
[15] 更 紗 【名】:印花的布
[16] 病 み 上 がり 【名】:病后,病好(的人)
[17] 綴 り 方 【名】:作文,造句
[18] 茶 目 【名·形2】:爱开玩笑(的人);恶作剧(的人)
[19] 対 蹠 的 【形2】:正相反的
[20] 言 いまくる 【动1】:驳倒,反驳;大谈特谈,大说一通
[21] 片 手 落 ち 【名·形2】:不公平,偏向
[22] けろり 【副】:若无其事;漫不经心
[23] さして 【副】:并(不)……