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3.本動詞構文に内包される恩恵性

序章で述べたように、授受動詞構文が表す恩恵性の有無や由来、恩恵性のプラス·マイナスなどの具体的な性質の問題については未だに見解の相違が見られるが、授受動詞構文の意味特徴に関する研究は授受動詞構文の恩恵性表出に集中しており、授受補助動詞構文の表す恩恵性に関する研究は特に多い。

例えば、松下(1928)は、授受補助動詞構文による表現を「利益態」とし、「利益態は動詞の一相であって、其の作用がある人の利益となることを表すものである」と述べ、「利益態は動作者と利益者との彼我の関係の異同に由って他行自利態、自行他利態、自行自利態の三つに分たれる。」としている(p.394)。序章で述べたように、松下は、前接動詞を「実質動詞」、補助動詞を「形式動詞」と称し、「形式動詞」を「単なる利益を表す」ものとしながら、「形式動詞」の意味機能の単一性、そして利益性に関しても全面的にプラス的利益を強調し、マイナス的利益についてほとんど言及していない。

金田一(1952)も、テヤルについては、話し手または他のものから、他のものへ恩恵が及ぶことを表し、テクレルは、他のものから話し手のほうに恩恵が及ぶことを表すとし、テモラウは、文の主格に立つものが他のものから恩恵を受けることを表すとしている(p.179)。

同じ観点から、紙谷(1975)、上野(1978)も授受補助動詞構文の恩恵性に着目しながら考察をしている。また、三宅(1996a)は授受補助動詞構文を「受益構文」と称し、由井(1996a)も「恩恵性」を授受動詞構文の重要な意味要素の一つとみなして分析している。

このように、授受補助動詞構文の恩恵性については数多くの先行研究がみられるものの、本動詞構文の恩恵性については管見の限り、言及しているものは極端に少ない。

そもそも補助動詞構文の恩恵性はどこから発生するものなのであろうか。

Masuoka(1981)は、補助動詞構文を“Benefactive Constructions”と称し、本動詞構文と補助動詞構文との恩恵性に関する関連性に着目している。さらに益岡(2001)では以下の例を示し、広義の授受動詞文と「クレル·ヤル·モラウ」の授受動詞文とは、恩恵性表出に関しては、大きく異なることを指摘し、「クレル·ヤル·モラウ」の授受本動詞にはLexicalに「恩恵性の萌芽」が内包されていると述べている。

益岡は下の例において、いずれのaも文法的に適格であるのに対して、(15)、(17)、(19)のbは容認度が低いとしている。

(14)a 多くの学生に優を 与えた

b 多くの学生に優を やった

(15)a 一部の学生に不可を 与えた

b ?一部の学生に不可を やった

(16)a 職員に優待券を 渡した

b 僕に優待券を くれた

(17)a 即座にイエローカードを 渡した

b ?即座にイエローカードを くれた

(18)a 教え子から歳暮を 受け取った

b 教え子から歳暮を もらった

(19)a 脅迫状を 受け取った

b ?脅迫状を もらった

(益岡,2001,p.27)

この言語事実からは少なくとも次の二つのことが考えられる。

①広義の授受動詞は人称性だけでなく、恩恵性に関しても中立的である。

②広義の授受動詞とは異なり、授受本動詞は恩恵性に関しては、中立的な立場よりも、明示的な恩恵性を含む立場から表現することが通常であり、日本語話者はそのほうが好ましいと認識している。これによって、言語事実としては、好ましくないモノの授受より、好ましいモノの授受を表すほうが表現として容認度が高い。

益岡(2001)は、本動詞だけでなく、補助動詞構文に関しても、この「恩恵性の萌芽」が受け継がれ、補助動詞構文まで拡張されていると述べている。

次節では、この「恩恵性の萌芽」を一つの仮説としてデータ調査を試みる。具体的には、モノの授受を基本とする本動詞構文に現れる「モノ」の意味特徴、特に恩恵性に関する意味特徴に着目して二つの方向から調査するという方法を採る。一つは、先行研究を参照しながら、本動詞の通時的な用法に着目する。いま一つは、史的変遷に着目するアプローチとは異なり、厳密に時代の区分はしないが、共時的データを手がかりに、コーパスによるデータ調査を行う。

3.1.通時的用法から見る「モノ」の意味特徴

授受動詞に関する通時的研究は管見の限り、極めて少ないが、本研究では、吉田(1971)、宮地(1975)、古川(1995、1996a、1996b)、前田(2001)を参考にしながら、授受動詞の史的変遷に着目し、本動詞文の意味用法、とりわけモノの意味特徴に注目して考察していく。

先行研究によれば、クレル·ヤル·モラウの意味用法の史的変遷は、以下の表①のようにまとめることができる。

表①

表①から、授受動詞の意味用法の史的変遷について、以下のことが推察される。

①語史的に見て、授受本動詞文は、最初はクレル(クルの異形)の一語だけであり、与える視点の動詞であった。

②ヤルの意味拡張により、クレルの用法の一部がヤルに取って代わり、さらに侵食されることにより、役割分担の時代を迎え、後にモラウが現れる。

③3系列の授受動詞の間では概ね、クレル⇒ヤル⇒モラウの順で語史上に現れ、三者が並立するのは中世末期と推測される。

④系列内部では3系列同様に、本動詞構文⇒補助動詞構文の順で出現した。

⑤3系列7形式の形で出現するのはさらに後世のことであり、それも敬語中心であった時代では、「クレル·ヤル·モラウ」という3形式だけが使われているうちに敬意度が低下すると認識され、高い敬意表出の要請に応じて生じた形式である。

しからば、本動詞として使われていた時代には、具体的にどのようなモノが対象物として授受行為に関与していたのであろうか。本研究ではモノの意味特徴、特にモノの恩恵性に関する意味特徴に注目して、データ調査を行い、その実態を観察していく。以下の例を見てみよう。

(20)少輔いつとなく臥したりけれは、おとど、「いとほし。かれに手わらはせよ、 物くれ よ。」との給へば、……

(『落窪物語』巻之二)

(21)「…私にも、いみじきよろこびいはむとす。…」など語らひて、常に台盤所の人、下衆などに くるるを 果物やなにや と、いと多く取らせたれば、うち笑みて、「いと易きこと。…」

(『宇津保物語』)

(22)さらばすてよとて、着給ひける 小袖衣 、みな乞食どもに ぬぎくれて ひとへなる物 をだにも身にかけたまはず、あかはだかにて下向し給ひける。

(『選集抄』巻一)

(23)良き友、三あり。一には、 物くるる友

(『徒然草』第百十七段)

(24)御門にうれへ申せば、「母上に問へ」と仰あれば、母に問ふに、「人に 物くるる こそ、わが子にて候はめ」と申せば、する方なし。

(『宇治拾遺物語』)

(25)太郎冠者:おれが分別した事が有が、 くれふか

(『大蔵虎明本』「ひの酒」)

(26)祖父:うう孫共がおれに くすり くれて 、わかうなひて使わうといふか。

(『大蔵虎明本』「やくすい」)

(古川,1995,pp.194~196)

これらの例はいずれもクレル(クル/呉る)の例であるが、まだ物の授受に関して三語並立の時代ではなく、クレル(くる/呉る)一語に限られるか、クレル(クル/呉る)一語が優位な時代であったため、人称制約はなく、(20)、(21)(平安時代)、(22)、(24)(鎌倉時代)はいずれも現代語のヤルに当たる用法である。授与物のモノに着目して見ると、二重の下線でマークしているように、それぞれ(20)では「かわいそうな人に何か物を与えよう」という内容であり、(21)では「下衆に果物やなにやとやる」、(22)では「小袖衣」、「ひとへなる物」、(24)では「世の人に物を与えることこそわが子のなすべきことである」というような意味を表しているところから見れば、いずれも良きものであり、与えられる人にとってはありがたいものである。そして、 (23)では友がくれる「物」、(25)では「酒」、(26)では「くすり」であり、いずれも問題となる状況において必要とされるもの、好ましいものであることは容易に想定される。

次にヤルの用例であるが、最初の平安時代あたりでは「手紙を送る」の意、それから「使いに行かせる」の意に使われている。

(27)そののち、こなた、かなたより、 文などやり給ふ べし。

(『源氏物語』末摘花)

(28)かへりて、又の日、あかざりし宿の櫻を春くれて、ちりがたにしもいちもくみしかなといひに やる

(『更級日記』一品の官·土忌)

(古川,1995p.196~197)

この二例は、いずれも平安時代の用例であり、(27)は「手紙を送る」の意で、(28)は使いを「行かせる」の意である。鎌倉時代以後は、人を「行かせる」の意の用法は依然として存在するが、モノの授受に着目すると、以下の例に見られるように、「手紙を送る」の意以外に、他のモノの授受にまで用法が拡大している。

(29)都へたよりもとめて 文やる

(『徒然草』第五十段)

(30)それよりなをいやましに思ひつつ、度々の 御文 やり給へば 、二川の行末は、やがて逢ふ瀬となり給ふ。

(『御伽草子』)

(31)牛を売る者あり。買ふ人その あたひ やりて うしをとらんといふ夜のまに牛死ぬ。

(『徒然草』第九十三段)

(32)売手:其手へ やるみやげ ではおりなひ。

(『大蔵虎明本』「すゑひろがり」)

(33)夫:あふ何成共わごりよが ほしひと思ふ物 があらはやらふ。

(『大蔵虎明本』「ひつくくり」)

(34)宗盛これもげにぢゃと言うて、この三人を呼び出いて、 やるぞ … (『天草版平家物語』)

(古川,1995,p.197)

以上の例では、(29)、(30)は「手紙を送る」の意で、(31)~(33)はそれぞれ「お金」、「みやげ」、「ほしひと思ふ物」である。さらに(34)では「暇」のような抽象的なモノの授受にも使われている。これらのモノは、具象物としてのモノであろうと抽象物としてのモノであろうと、ありがたさや好ましさの程度に差はあっても、授受物としてはいずれも受ける側にとってマイナスとなるモノでないことは確かである。

モラウに関しては、吉田(1971)は、「『もらふ』という動詞は、本居宣長や橘守部が引用ではあるが、早くから指摘しているように『新撰字鏡』に「餬寄食也、毛良比波牟」とあることから、食べ物を乞い求める意として存在した古語である」(p.569)と述べている。先行研究に例が少ないため、『古語大辞典』(小学館1985年版)、『日本国語大辞典』[小学館(2001)第二版]から採った例を資料として補いながら、今少し見ていく。

(35)磯に出て網人に釣人に、手をすりひざをかがめて 魚をもらひ

(『平家』·三)

(『前田2001,p.39』)

(36) 色々の物 もらふて 、うれしうなひと申事かござらふぞ。

(『虎明本狂言·入間川』)

(37)昨年きりで 貰って 、今度のところへ出ることにいたしました。

(『人さまざま』)

(38)暑気払ひに、 ウヰスキイ を一杯もらうかな。

(『大道無門』)

(39)彼めのとは寡ずみして、人にやとはれ、ぬひ針とりて 口はもらへど

(『読本·春雨物語』)

(40) 此方の娘 囉(モロ)ふても くださるか、たづねてくだされ。

(『浮世草子·世間胸算用』二·一)

(『日本国語大辞典·第十二巻』,pp.1398~1399)

(41)押し付けがましいやうなれど、 万事 は我らがもらひます。

(『浄·八百屋お七·中』)

(42)残り惜しう思やろずれども、今日はいやでもおうでも、 高橋殿(=遊女ノ名)をもらふ

(『難波鉦·六』)

(『古語大辞典』p.1644)

以上のモラウの例について、吉田(1971)が述べているように、「食べ物を乞い求める意」が基本的な意であり、生存に関わるものであるので、好ましいモノであることには疑問がない。これは後に「扶養を受ける」ような意味として「口をモラウ」[例(39)]という慣用的用法へと拡張したものと考えられる。

一方、好ましいモノ、ないし必要とするモノの授受のほうが圧倒的に多い中で、例(40)のように、嫁·婿·養子など、人を迎え入れる意、そして(41)の例が示すように、喧嘩など争いの仲介に立つ意、さらに例(42)のように、遊里で客についている遊女を譲り受けるような意味にも拡張していっている。さらに比較的新しい用法として、

(43)社長から恐ろしい 病気 までもらったようなことでして。

(『真理の春』)

(『日本国語大辞典·第十二巻』,p.1399)

のように、「病気をモラウ」形で、「病気がうつされる」の意味として使われ、好ましいモノとは言えないモノの授受関係に使われる用法もある。しかし、この用法は「喧嘩をモラウ」のような用法と同様に、使用の頻度としては極めて少ないと見ることができよう。

このように、通時的にクレル·ヤル·モラウという三つの本動詞用法について、特に授受物としてのモノに注目して見た場合、モノの好ましさに程度の差はあるものの、基本的には、好ましいモノ、必要とするモノ、或いはありがたいモノの授受を表す傾向性が強いと見て取って差し支えなかろう。このことは要するに、「モノの授受」を基本的意味とする本動詞構文では、その主要な構成成分である「モノ」の性質や意味特徴を見ていく上で軽視できないことを意味している。

3.2.共時的用法から見る「モノ」の意味特徴

前節では、授受本動詞の通時的意味用法について授受物としての「モノ」の意味特徴に着目して見てきたが、この節では「中日対訳コーパス」 と「青空文庫」 を資料に、共時的にデータ調査をしていく。

この節でも前節と同様にクレル·ヤル·モラウ本動詞の意味用法、とりわけ授受事象に関わる授受物の意味特徴について観察することを目的とする。調査は、対象物の意味成分についていくつかの種類に分け、それに応じてデータを分類するという方法を採る。

この調査、観察、分析の作業は授受対象物の意味成分を分析することをその目的とするものではなく、意味成分の性質、即ち対象物の恩恵性、具体的には恩恵的か非恩恵的かという意味特徴を究明することがその目的である。そこで、データの量に関しては、「中日対訳コーパス」と「青空文庫」から合わせてクレル·ヤル·モラウを100例ずつ収集して見ていくこととした 。調査の結果は、「モノ」の意味成分の分布の上から以下の表②のようにまとめることができる 。

表②

(対:「中日対訳コーパス」青:「青空文庫」)

以下、この表を基に、各意味成分の類分け(A~H)について、クレル·ヤル·モラウの順に見ていく。

◆A類生存に必要なモノ

(44)ぼくが困って坐っていると革を買う人が通ってその車にぼくをのせて たべもの くれた 。それからぼくはだんだん仕事も手伝ってとうとうセンダードへ行ったんだ。」

(『ポラーノの広場』)

(45)考えてみると、被服支廠から仕事を仰せつかっている僕の会社では、 仕事 くれる 相手方に対して変則的な奉仕をする社風を持っている。原因は物資不足のためも大いにある。とても正規な配給では食糧も日用品も足りないので、こちらは足を擂粉木にして諸所方々を探しまわり、被服支廠の威光を笠にきて仕入れて来る。

(『黒い雨』)

(46)こういう中にも、ひとり力に成るのは音作で、毎日夫婦して来て、 くれるやら 、旧の主人をいたわるやら、お末をば世話すると言って、自分の家の方へ引取っているとのこと。貧苦の為に離散した敬之進の家族の光景——まあ、お志保が銀之助に話して聞かせたことは、ざっとこうであった。

(『破戒』)

(47)タカが当工場に辿りついた時——昭和二十年八月八日午前八時頃。ふらふらと炊事場へ入って来て「カネさん、水、水、水……」と云う。その声で、カネはタカであると知って、ニュームのコップで やる 。顔面では誰とも判断がつかなかった。タカは水を飲むと、あとは気息奄々となってしまう。呼んでも更に答えがない。

(『黒い雨』)

(48) 食物 をやるのはいつも私だけだったし、彼は家じゅう私の行くところへどこへでも一緒に来た。往来へまでついて来ないようにするのには、かなり骨が折れるくらいであった。私と猫との親しみはこんなぐあいにして数年間つづいたが、

(『黒猫』)

(49)慈念はゆっくり上ってきた。里子のそばにきたとき汗くさい男の頭の臭いを嗅いで里子はむうっとした。 かき餅 やると 、腹がへっていたものか、音をたてて口に入れている。歯の白い子である。

(『雁の寺』)

(50)二人はまた翌日から、鳥屋(とや)と共同の小屋の中で、貧乏な日を一緒に迎え始めたのである。 そして、二人とも中気のようになった今日も、婿から 貰う五合の米 を分け合い、互の微かな稼ぎで、お互に潤し合いながら暮している。

(『三郎爺』)

(51)会社の食堂がまだ開いてなかったので、炊事係に云ってフスマを混ぜた冷たい麦飯にお湯をかけて食べた。弁当には倉庫の空箱の底に見つかったという 乾パン 貰った 。石炭入手のあてもなく、行く目的のところもなく、浮浪者のようなものでありながら気ばかりあせっていた。とにかく、車中で考えることにして広島行の電車に乗った。

(『黒い雨』)

(52)石鹸は米糠、苛性曹達などで作った もの 貰ったり 、乳剤を闇買いしたりしておりました。

(『黒い雨』)

授受対象物(例文の太い下線部分)の「モノ」に着目して見ていくと、例(44)~(52)のモノはいずれも生存に関わる、或いは生存に不可欠なものである。その中でも食物関係のモノが多く、人間に与えるモノもあれば、動物の生存を保障する「餌」[例(48)]のようなモノもある。さらに、このような生存に関わるモノは具体的に明示はしないで、「物」[例(46)]、ないし「もの」[例(52)]として表示される場合もある。モノは具象的なモノだけでなく、抽象的なモノ[例(45)]の場合も見られる。

◆B類金銭類

(53)柏木が金をとりに来た五日後に、老師は第一期分の授業料の三千四百円と、通学電車賃の三百五十円と、文房具購入代としての五百五十円とを、私を呼んで手ずから渡した。夏休み前に授業料を払込む校則であったが、あのようなことがあったあとでは、私はまさか老師が その金 を呉れるとは思っていなかった。

(『金閣寺』)

(54)兄弟子たちも思い思いに 餞別 (せんべつ)を くれた 。みんなの親切が身にしみて嬉しいに付けても、六三郎はこの親切な人びとに別れて、…それから自分が縫ったといって肌着をくれた。 もう決心はしたものの、六三郎はやっぱりお園に別れるのが辛かった。

(『心中浪華の春雨』)

(55)これはその前のこと、そうやって祖母が出て来ると、お土産にきっと お金 くれた 。一円くれるのであった。 「おら田舎婆さまで今時の子供は何が好きか分らないごんだ。お前好きなものこれで買え」 その一円は五十銭の銀貨二枚か札かであった。

(『百銭』)

(56)僕の言おうとするのは、もしあの大臣が数学者であるだけだったら、総監はこの 小切手 を僕に くれる 必要がなかったろう、ということなんだ。しかし僕は彼が数学者でありかつ詩人であることを知っていたので、僕の物差を、彼の周囲の事情を考えて、···

[エドガー·アラン·ポー (Edgar Allan Poe),佐々木直次郎訳『盗まれた手紙』]

(57)道中をしたら 茶代 やる ものだと聞いていた。 茶代 やらない と粗末に取り扱われると聞いていた。こんな、狭くて暗い部屋へ押し込めるのも 茶代 やらない 所為だろう。見すぼらしい服装をして、ズックの革鞄と毛繻子の蝙蝠傘を提げてるからだろう。田舎者の癖に人を見括ったな。 一番茶代 やって 驚かしてやろう。おれはこれでも学資の余りを三十円程懐に入れて東京を出て来たのだ。汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円程ある。みんなやったってこれからは月給を貰うんだから構わない。

(『坊っちゃん』)

(58)なぜなら、この森が私へこの話をしたあとで、私は財布からありっきりの 銅貨 七銭 出して、お礼に やった のでしたが、この森は仲々受け取りませんでした、この位気性がさっぱりとしていますから。

(『狼森と笊森、盗森』)

(59)車屋には彼が云う通りの外に、少し許り 心づけ やる 。車屋は有難うござりますと、詞(ことば)に力を入れて繰返した。…近頃君も煙草をやるのか、君は煙草をやらぬ様に思っていた」 「ウンやるんじゃない板面(いたずら)なのさ。

(『浜菊』)

(60)実際、我輩なぞは教育をしているとは思わなかったね。羽織袴で、唯 月給 貰う 為に、働いているとしか思わなかった。だって君、そうじゃないか、尋常科の教員なぞと言うものは、学問のある労働者も同じことじゃないか。毎日、毎日——騒しい教場の整理、大勢の生徒の監督、僅少の月給で、長い時間を働いて、克くまあ今日まで自分でも身体が続いたと思う位だ。

(『破戒』)

(61) リベート は商取引にはつきもので、悪事ではない。ただ それ 貰う 席にいないものは、いまいましいから悪く言うが、それは嫉妬であって正義ではない。だからといって恐れながらと上役に訴えて出るものがいないの、いつ自分がその席に坐る番が回ってくるか知れないからで、故に利口者はリベートをひとり占めにしない。いつも同役に少し分配して無事である。

(『百言百話』)

(62)お金は、ついたちの朝に もらった 四月分の お小遣い二十円 が、まだ半分以上も残っている。それでも心細いので、兄さんから借りているストップ·ウォッチと、僕の腕時計と二つ忘れずに持って出た。二つ一緒だと、百円くらいには売れるかも知れない。

(『正義と微笑』)

これらの例は、いずれもお金の受け渡しに関わる事態を表しているものである。お金も人間生活においては、実質的に人間の生存に関わる側面を有するものではあるが、人間社会においては、特別な存在価値を持っているものであるため、独立した意味成分のカテゴリーとして設定した。社会的通念として、お金を好ましいものと思わない人は恐らく少ないであろうし、例(61)のように、やや特殊な状況下ではあるが、「リベート」は正義を判断基準とすれば、決して好ましいものとは言えないが、この例では、結果的に好ましくないはずのお金でも、みんなに望まれる存在となっている。これらの表現例の他にも、「金·餞別·小切手·茶代·銅貨·心づけ·月給·お小遣い」など、枚挙に遑のないほどに、さまざまな語彙によって、望ましい存在価値を有するモノとして表されている。

◆C類通信物·手紙類

(63)「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、 手紙 くれた りするのは、たいていそういうんですわ。」

(『雪国』)

(64)筆無精の私は、返事を書こうと思いつつ、ついつい返事が遅れた。教室には来ているはずだが、二〇〇人近くいる大教室ではだれが 手紙 くれた 俵万智さんなのか、まったく見当もつかない。こちらからは、話しかけようがないのだ。

(『サラダ記念日』)

(65)そして一度私に 葉書 くれた ことがあつた。その葉書に山宮泉とあつたのが、その微かな記憶がふと私の脳に点火されたのだつた。私はその簡単な経緯をSに話した。 「へえ、それは珍しい。山宮にはK大の方の友人はなかつたやうだが、それでは明日はあなた···

(『二つの死』)

(66) 手紙?誰に 遣る手紙 ?時雄は激した。そんな手紙を書いたって駄目だと宣告しようと思って、足音高く二階に上った。

(『布団』)

(67)しかし妙子は立つ前に達雄へ 手紙 やる のです。「あなたの心には同情する。が、わたしにはどうすることも出来ない。…」そう云う意味の手紙をやるのです。その手紙を受けとった達雄は……早速支那へ出かけるのでしょう。

(或『恋愛小説』——或は『恋愛は至上なり』——)

(68)先だっても柳沢の言っていたことに、真野(まの)がある女に やった手紙 (ふみ)を水野がその女から取り上げて人に見せていた。他の男が女に やった手紙 を女から取り上げて見るのは面白い。水野は腕がある。

(『うつり香』)

(69)曾根はその長文の手紙に眼を通し始めたが、次第にその表情は暗く変って行った。曾根は、 手紙 もらっ たシュルツ博士とは面識があった。今年の春来朝した時、曾根は九州の大学でこの高名な生物学者と会った。

(『あした来る人』)

(70)先生は時々奥さんを伴れて、音楽会だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで一週間以内の旅行をした事も、私の記憶によると、二三度以上あった。私は箱根から 貰った絵端書 をまだ持っている。日光へ行った時は紅葉の葉を一枚封じ込めた 郵便 貰った

(『こころ』)

(71)合格。この 電話 もらった

}のは11時近くだった。発表へ向かう途中に、おしゃべり好きで有名な知人に捕まったらしい。何もこんな日に、こんな大事な時に遭遇しなくてもいいのに。神様もなかなか意地悪だ。

(『五体不満足』)

(72)二十一ぐらいの時から、私は父たちの暮しと別になったのであったが、それから永別するまでの十数年間に 貰った手紙 の数は決して多くなかった。手紙をかくのは母の役のような工合で、それらの手紙は余り流達雄弁であるため、様々の思いをもって生きている娘。

(『父の手紙』)

前節の通時的考察で見てきたように、本動詞ヤルの最も最初の意味は「手紙を送る」の意であった。一方、例(63)~(72)から分かるように、ヤルだけでなく、クレル·モラウも手紙のやりとりの中では広範に使用されている。情報伝達やコミュニケーションの手段として、「手紙」以外に、「葉書」、「電話」、「電報」、「返事」、「郵便」などの語彙も多く使われている。

◆D類プレゼント·お土産·賞品類

(73)杏子はその手紙の方はすぐには開かないで、それをミシンの台の上に載せた。犬を取り返しに来ておいて、結局それを自分に置いて行った克平の顔を思い浮べると、杏子はあるすがすがしさを感じた。が、それが、克平の くれた という行為から来ているか、妙に乾燥した感じのする彼独特の応対ぶりから来ているか判らなかった。

(『あした来る人』)

(74)今年の二月、彼女は自分に、愛の印だと云つて、一個の 腕時計 呉れた 。それを、彼女の白い肌から、直ぐ自分の手首へと、移して呉れた。彼女は、それをかけ替のない秘蔵の時計であるやうなことを云つた。

(『真珠夫人』)

(75)彼は、廊下に吊るされた籠の中の、駒鳥の快い鳴き声を寝台の上でききながら、太公が彼に 勲章 くれる 晴れがましい情景を想像 … 彼はこの時、ふと自分の所属連隊の副官のダシコフが、自分に 勲章 くれる といい出したことを思い出した。

(『勲章を貰う話』)

(76)そうして彼が記念に くれる と云った妙な 洋杖 を聯想した。この洋杖は竹の根の方を曲げて柄にした極めて単簡のものだが、ただ蛇を彫ってある···

(『彼岸過迄』)

(77)普通一般にごく単純に考えるなら、当方から人に何か 遣る 、それも善意でプレゼントするのである以上、相手は素直に喜ぶのが当たり前であろうと、思い込んでかかるのも無理はあるまい。だが人間に対しては微妙な配慮が必要である。その遣り方こそが実は大変な問題なのだ。

(『百言百話』)

(78)彼は途中、青いペンキを塗った鶯の声を真似る 竹笛 を売っていたので、それを買って一つ自分が持ち、二つを清に やった 。その小さな笛は、尻を圧(おさ)える指さきの加減一つで、いろいろな鶯の鳴き声を出すことが出来た。

(『比叡』)

(79)「地面は他のものだから仕方がない。その代りおれの持ってる もの は皆な御前に 遣る よ」

(『こころ』)

(80)私は退らねばならなかった。不満が私の体を熱くしていた。自分のした不可解な悪の行為、その褒美にも らった煙草 、それと知らずにそれを受けとる老師、……この一連の関係には、もっと劇的な、もっと痛烈なものがある筈だった。

(『金閣寺』)

(81)人から 贈物 もらった ことのない私には、何であれ、贈物はうれしかった。手にとってみる。孔は前面に四つ、うしろに一つあった。

(『金閣寺』)

(82)一度負けたらそのままずるずる行っちやうんじやないって怖かったよ。三十九度の熱があるときだって這って学校に行ったわよ。先生がおい、小林具合わるいんじゃないかっていっても、いいえ大丈夫ですって嘘ついてがんばったのよ。それで無遅刻、無欠席の 表彰状 とフランス語の 辞書 をもらったの。

(『ノルウェーの森』)

(83)労働婦人はみんな四ヵ月の 有給休暇 もらって 、月給の半分の 仕度金 貰って 、そして無料産院で赤坊を生み、なお 九ヵ月間牛乳代 もらう 。それだけの設備と権利がある上で、避姙や人工早産がゆるされているのです。

(『市の無料産院』と『身の上相談』)

D類のプレゼント·お土産·賞品類の中には、例えば、「勲章·贈物·表彰状」などのように、明示的な語彙を使用することによってD類としての性質を表すものもあれば、「形見に·記念に·褒美に·お礼の代わりに」など前接文脈や後接文脈の助けを借りて言い表すものもある。このデータの中には、食物関係のモノも数件見られたが、いずれもA類に類分けされる食物と比較してみれば、生存上別段必要とされないモノ、或いは単なるプレンゼントとして送ったり送られたりするモノばかりであった。このグループの場合も、モノは、具象物が圧倒的に多かったが、例(83)のような抽象的なモノも見られた。そして例(73)のように、ペットの動物の例も見られる。

◆E類特定行動に必要なもの

(84)私は嘗て沙翁の芝居見物のために、二年間イギリスに留學を命ずなんて、 辭令 をくれる特別な學校はないものかナア、と嘆息した事もあつたが、今又イギリス湖水地方、特にヰンダアミヤ附近、ダアエント、グラスミヤ等に遊んで來る事を命ず、なんていふやうな···

(『道學先生の旅』)

(85)何か一枚の紙に かいた物 くれた ので、役人は夢中でそれを受取ると、ひとりの男がまた彼を案内して、三日の後に元の場所まで送り帰してくれた。何がなんだか更にわからないので、役人はまだ夢をみているような心持で帰って来て、中丞にその次第を報告し、···

(『中国怪奇小説集』池北偶談)

(86)軍医は脳神経衰弱と診察した。そして二週間の 休暇 くれた 。 学校の門を出た僕は、以前の僕と変らない、ただ少し何か物思いのありそうな、快活な少年だった。そしてその足ですぐ大阪へ行った。 大阪には山田の伯父が旅団長をしていた。

(『自叙伝』)

(87)ただの風邪だろうという診察を下して、 水薬と頓服 呉れた 。彼はそれを細君の手から飲ましてもらった。 翌日は熱がなお高くなった。

(『道草』)

(88)もういい。解った。犯人はお前だ。いまから晩まで やる から、ゆっくり独りで考えてみろ。自分がやった事を静かに考えてみるんだ。可哀そうに、お前を愛して、お前の子までみごもっていたのに、お前はその女を邪魔にして、殺してしまったんだ。お前のような立派なインテリが、どうしてそんな残酷なことをしたんだ。

(『青春の蹉跌』)

(89)「小僧ッ、 馬穴 やる から足を洗って、その鉄梯子から上って来な」 ガレージの隅がほのあかるくなった。そこから鉄梯子がさがっていて、小さい馬穴が紐にぶらさがって降りて来た。

(『泣虫小僧』)

(90)ブドリが、クーボー大博士から もらった名刺 のあて名をたずねて、やっと着いたところは大きな茶いろの建物で、うしろには房のような形をした高い柱が夜のそらにくっきり白く立っておりました。

(『グスコーブドリの伝記』)

(91)こうして、両親の熱意とボクの地力で 「入学許可」 もらう ことができた。しかし、それには条件があった。子どもは、朝になると「行ってきます」と元気よく家を飛び出し、学校で勉強をしたり友達と遊んでから、夕方になって「ただいま」と帰ってくる。

(『五体不満足』)

(92)人生の踊り場、原点に戻る一いずれも奥深い言葉である。壁にぶつかって行き詰まる、それは別の視点で見れば人生の踊り場を与えられ、原点に戻って考え直す 機会 もらっ たようなものだ。この原点に戻るという考えかたは、人生の指南書として有名な『菜根』にも書かれている。どうにもならないような所へ追いつめられたら、原点、スタートの時点に戻って反省してみよ、とある。

(『心的危機管理術』)

E類のモノは、A類のそれのように、人生や生存に密接に関わるようなモノではなく、またD類のように、たとえ期待していなくとも送られてくるプレゼントや賞品のようなモノでもない。E類は何かのことを実行したり、完成させたりするために必要不可欠なモノである。例えば「暇」のような抽象的なモノは、奨励されて、与えられる休暇の意の「暇」はD類とし、病気を直すために必要な「暇」[例(86)]は、それと区別してE類にグルーピングした。「薬品」[例(87)]も同様の扱いとした。

◆F類その他

(93)インドではこうした概念が拡大されて、貧富の差にも広く適用される。YがXからいかをもらっても何ら義理を生じないのは、YにとってXはより「もてる者」であるから当然のこととして受け取るからである。いかなる意味でも返却などということは社会的に強制されないのである。このシステムでは「よくしてやった」とか「 もの やった 」という行為は、Xに何らのリターンを意味しないのである。「もてる者」と「もたざる者」の間では、水が高きから低きに、流れると同様の原則が存在しているのであり、「もののやりとり」の前に、社会学的一定の関係がアプリオリに存在し、それゆえに「もののやりとり」という行為が生まれる。

(『適応の条件』)

(94)一つの典型的な例は(インド、その他にも多くの社会にみられる例であるが)、母の兄弟から姉妹の子供につねにものが与えられ、その逆はさけなければならないという社会組織である。このようなシステムであると、自己にとって、 もの もらう 人と与える人が必ず違ってくる。そして社会全体としてバランスがとれるという仕方である。

(『適応の条件』)

F類は全データの中で、2例しか見られなかった。この2例はいずれも同じ作品から抽出されており、抽象名詞の「もの」によって表されている。具体的な内容には言及せず、行為の性質も漠然としているため、このF類はどの類にも入りにくい性質のものである。F類は、慣用的用法でもなく、特殊な用法でもないので、「その他」という独立した種類として扱うこととした。F類の2例は、インドの社会における物のやり取りのシステムに関わる内容であり、日本とは異なるシステムとして取り上げられている。特に、与え手と受け手の関係については、通常のやり取りの二者関係ではなく、多者関係であるため、相互に直接義理関係の生じにくいところが特徴である。しかし、システムは異なっても、まさに「もてる者」と「もたざる者」の間で、水が高きから低きに流れると同様の原則のように流動するモノの性質は、F類以外の類と同じように、通常必要なモノ、ないしは価値のあるモノであることは容易に文脈から読み取れるものであり、一般的社会通念としてそのように認識されるものであることも読み取られる。

◆G類慣用句的用法

(95)むろん、砂地の虫は、形も小さく、地味である。だが、一人前の採集マニアともなれば、蝶やトンボなどに、 目をくれたり するものでない。彼等マニア連中がねらっているのは、自分の標本箱を派手にかざることでもなければ、分類学的関心でもなく、またむろん漢方薬の原料さがしでもない。昆虫採集には、もっと素朴で、直接的なよろこびがあるのだ。新種の発見というやつである。

(『砂の女』)

(96)だが彼女たちは詩碑にチラと 一瞥をくれた だけで、外の景色を見おろしながら、いろんな話をしていた。そして左の方に見える、怪物のように横たわった偉大な三本のドラフトを指しながら「信濃川のが東洋一なら、この水電のドラフトは日本一なんですって、···

(『浅間山麓』)

(97)私は思わず立上ったが、なすすべを知らずに、窓硝子に背を押しあてていた。柏木が女の細い手首をつかむのが見えた。それから、女の髪をつかみ、 平手打ち を頬に くれる のが見えた。そういう柏木の荒々しい一聯の動作は、実に先程、活け花をしていて葉や茎を鋏で切っているときの、静かな残忍さと寸分ちがわず、そのままの延長のように思われた。

(『金閣寺』)

(98)本当にこの夫人なら黄色が映ると思う。杏子が生地を取りに卓から離れると、八千代はまた脚もとの犬に 眼を遣った

(『あした来る人』)

(99)内供は慌てて鼻へ 手をやった 。手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上から顋の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、又元の通り長くなったのを知った。

(『鼻』)

(100)僕はペンを持つたまま、懐中時計へ 目をやる と、——今度は不思議にも十二時になつてゐた。懐中時計は暖まると、針を早くまはすのかしら?

(『春の夜は』)

G類は、300例のデータの中で、23例見られた。その分布から明らかであるように、その用法がヤルに集中していることは看過できないことである。ヤルは最初からモノの授受を表す専用の語ではなく、「手紙を送る」、「お使いに行かせる」を基本義として使用しているうちに、「手紙を送る」の意から徐々に手紙以外のモノのやりとりに使われるようになったという史的変遷と関係があるように思われる。一方、今回の調査で、「目をヤル」、「手をヤル」の用法は総データ量から見てそれほど多くはなかったが、決まった組み合わせ、即ち語彙化された慣用句的形式として出現の頻度が高かった。これは、「お使いに行かせる」とも何らかの意味的関連性があるように思われ、定着した用法として広く近·現代まで使用され続けてきた。

クレルに関しては、今回の調査の中では定着した慣用句的な用法は見当たらなかった。例(97)の「平手打ちをクレル」をこのグループに入れた理由は、動作を与える意味で「拳骨をクレル」の用法があるためである。また「見向きもしない」という意味で「目もくれない」という慣用句があることを考えて、例(95)の用法もこの類に入れることとした。この例の「目をクレル」は肯定の形ではあるが、文末に否定形が使われているため、意味的に「見向きもしない」と同様の意味である。意味的近似性を持つ「一瞥をクレル」の用例も見られたので、この類に入れることとした。

モラウについては今回の調査では定着した慣用句的な用法は見られなかった。因みに、史的用法で見られた「病気をモラウ」、「喧嘩をモラウ」の用法もこの調査に限っては現れなかった。

◆H類特殊用法

(101)「あの男もあの男なら、六左衛門も六左衛門だ。そんなところへ くれた ところで何が面白かろう。これから東京へでも出掛けた時に、自分の は政事家だと言って、吹聴する積りなんだろうが、あまり寝覚の好い話でも無かろう。虚栄心にも程が有るさ。ちったあ娘のことも考えそうなものだがなあ」

(『破戒』)

(102)こういう中にも、唯一つ、あの省吾に くれた いと思って、用意した もの を持って来ることだけは忘れなかった。昼休みには、高等科から尋常科までの生徒が学校の内で飛んだり跳ねたりして騒いだ。なかには広い運動場に出て、雪投げをして遊ぶものもあった。

(『破戒』)

(103)格子戸の填った、玄関のところに小泉商店とした看板の掛けてある家の奥で、実は狭い庭の 盆栽に水 くれた 。以前の失敗に懲りて、いかなる場合にも着物は木綿で通すという主義であった。彼の胸には種々なことがある。

[『家』(上巻)]

(104)時雄は頻りに酒を呷った。酒でなければこの 遣る に堪えぬといわぬばかりに。三本目に、妻は心配して、「この頃はどうか為ましたね」

(『布団』)

(105)そんな点になると、学問をした私の方が、却って形式に拘泥する位に思われたのです。親類はとにかく、当人にはあらかじめ話して承諾を得るのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知のところへ、私が あの子 遣る 筈がありませんから」と云いました。

(『こころ』)

(106)「ともかく日本人は恋を軽蔑しすぎている。仲田ではないが、恋する男に をやるよりは見ず知らずの男に やる ことを安心と心得ている。又若い者は女を欲求することと恋とを一つに見ている。女の運命を第一に気にするのが恋で、自分の欲望を満そうとばかりするのが肉慾だ。娘を最も清く恋するものに与えるのが親兄弟の務だ。

(『友情』)

(107)僕は棺桶を至急つくるように工務部へ連絡し、死体の処理方法について指示を受けるため、 藤木 という工員に届書を持たして町役場へ 使いにやった 。医者や坊さんも頼みに、野々宮君を古市の町へ走らせた。

(『黒い雨』)

(108)近所の人はみんなうちに本を買いにくるし、配達もするし、昔からのお客さんも多いし、一家四人は十分食べていけるわよ。借金もないし。 二人大学にやる ことはできるわよ。でもそれだけ。それ以上に何か特別なことをやるような余裕はうちにはないのよ。

(『ノルウェーの森』)

(109)文部省の教育方針が本当にかわれば、 中学へ息子 やる にさえ、家庭の資産状態が調べられなければならない。数年前デパートの女店員は家庭を助けたが、今は家庭が中流で両親そろい月給で生計を助ける必要のないものというのが採用試験の条件である。

(『「大人の文学」論の現実性』)

(110)やがて、太陽の直射が、耐えがたくなった。きつく絞りこまれた瞳孔……くらげのように踊りだす胃袋……額をつきぬける激痛……もう汗を流してはいけない……これが限度だ。それよりも、おれの スコップ の方は、 どこにや ったっけ?……たしかあのとき、武器にするつもりで、持って出て……そう、それなら、あの辺に埋まっているはずだ……

(『砂の女』)

(111)と晴れた空を見上げていたが、いかにも胸の 思い やる と云う眼つきで、 ハアー 島で育てば 娘十六、恋ごころ…… と小声で唄い出した。低いけれども、信江は声自慢で、どこでおぼえてくるのか、いろいろな唄を知っているので人気ものだった。

(『だるまや百貨店』)

(112)甚六と甚六の女房は驚いてそのほうへ やる と、堂の中から何人(たれ)かが投げつけるように位牌や瓦盃(かわらけ)が飛んで来た。 その時をはじめとして、甚六の家には奇怪なことがありだした。

(『一緒に歩く亡霊』)

(113)祖父は 靴屋の小僧にやった 。熱湯でやけどをしたゴーリキイが二ヵ月で暇を出されて来ると、次は製図工へ見習にやられた。そこで一年辛棒した。生活はあまり辛い。逃げ出して、ヴォルガ河通いの船へ皿洗いとして乗組んだ。

(『マクシム·ゴーリキイの人及び芸術』)

(114)発車の時間は刻々に迫った。時雄は二人のこの旅を思い、芳子の将来のことを思った。その身と芳子とは尽きざる縁があるように思われる。妻が無ければ、無論自分は 芳子 貰った に相違ない。芳子もまた喜んで自分の妻になったであろう。理想の生活、文学的の生活、堪え難き創作の煩悶をも慰めてくれるだろう。今の荒涼たる胸をも救ってくれる事が出来るだろう。

(『布団』)

(115)ほんの一時の心持で一生の伴侶を定めるなんて、そんな馬鹿なことが出来るものじゃない。それから思えばナオミのような少女を家に引き取って、徐にその成長を見届けてから、気に入ったらば妻に貰うと云う方法が一番いい。何も私は財産家の娘だの、教育のある偉い女が欲しい訳ではないのですから、それで沢山なのでした。

(『痴人の愛』)

(116) お嫁 もらう のもあきらめなくちゃならん。顔を見なさい、赤いだろう? 飲んだのだよ」 「それあ、夕陽が当っているからよ。かつごうたって、だめよ。きのう約束したんですもの。飲む筈が無いじゃないの。ゲンマンしたんですもの…

(『人間失格』)

(117)なかには点数を伸ばそうと、おもしろいことを考える子がいた。「シンコウ」という間題が出た時に、「神鋼」と書いたのだが、先生に「そんな字はない」と言われ、 × もらった 。しかし、その子は「先生、『神戸製鋼』の略ですよ。先生は、ラグビー見ないんですか」と食い下がる。これには、ボクらだけでなく先生も大爆笑だった。

(『五体不満足』)

H類の特殊用法は、意味的にはG類とつながっている。特に、ヤルの用法について見ると、「目をヤル」、「手をヤル」というG類の具象的な用法から、「顔をヤル」、「思いをヤル」、「鬱をヤル」など、H類の抽象的な用法へと、一種の拡張を見てとることができる。また、「お使いに行かせる」が、近·現代でも使われていることは注目に値する。さらにその意味の延長であろうか、或いはまた意味の拡張であろうか、「子供を大学や中学へ行かせる」[例(108)、(109)]、「靴屋の小僧に行かせる」[例(113)]のようなデータも同じ意味的関連性を色濃く窺わせる数多くの表現例が観察される。

一方、クレルについては、特殊用法に類分けしたものは主に歴史的用法の残存であると捉えられるものである 。それは、「クレル·ヤル·モラウ」の三語が対立していない時代に、クレル一語がモノのやりとりに人称制約なしに使われていた用法であり、例(101)、(102)のような用法はいずれも現代語のヤルの用法に相当するものであるからである。データの中には「娘をクレル」の用法はほかにも見られたが、それは基本的には「娘をヤル」と同じ意味用法だと考えられる。G類の「拳骨をクレル」、「目をヤル」と平行して「目をクレル」の用法も見られたが、これもヤルの用法との意味的近似性から見て、歴史的用法の残存であると見なすことができる。

モラウの特殊用法としては、例(117)以外には、すべて「嫁を (に)モラウ」の意の用法ばかりであった。これは歴史的用法に既に現れていた「嫁·婿·養子を迎え入れる」の意そのままの残存であると思われる。例(117)の「×をモラウ」はこの一例だけであったが、明らかに好ましくないモノの授受に使われている。文脈から見れば揶揄の口調が読み取れるところから、やや特殊な意味用法であると言うことができる。

3.2.1.ヤルの意味拡張のメカニズム

上で取り上げた「目をヤル·手をヤル·顔をヤル」は、「目·手·顔」はモノではあるが、意味的には「目·手·顔」をモノとしてやりとりする意味ではなく、「目線を(~の方向に)向ける·手を(~の方向に)出す·顔を(~の方向に)向ける」の意味として使われている。このような意味的特徴から見ると、この用法は「手紙をヤル」からの拡張ではなく、「お使いに行かせる」からの拡張であると見ることができる。これがさらに拡張して、「思い·鬱」など感情と関わる抽象度のさらに高いモノにまで一般化することも容易に考えられる。

以上、データの観察から、ヤルの「お使いに行かせる」の用法には二つの方向への拡張が起きていたことが窺い知れる。一つは「お使いに行かせる」の対象、即ち「~ヲ行かせる」の「ヲ格」節からの拡張であり、もう一つは「お使いに行かせる」の中の行為目的を表す「ニ格」目的節からの拡張である。例(108)、(109)、(113)に見られる「大学に·中学へ·小僧に」は後者の用法である。

図⑦

このように見てくると、ヤルのもう一つの用法として、「手紙を送る」には、そのモノとしての「手紙」からも拡張が起きていることとなる。すると、上の「お使いに行かせる」の用法と合わせて考えれば、ヤルの多義性には実に面白い拡張のメカニズムが存在していることとなる。このことを整理すると、以上の図⑦のように図示することができる。

この図においては、ⅠとⅡには質的な相違が存在する。所謂モノのやりとりとして完全に拡張しているのはⅠのみであって、Ⅱはあくまでもヤルの多義性の意味成分と捉えることができる。それゆえ、Ⅰからの拡張には、本章2で述べてきたように、人称制約を受けながら、クレル·モラウと並んで、授受動詞の3系列体系を作り上げており、補助動詞への拡張も基本的にはこのⅠの用法からの拡張である。

いま一つは、「娘をヤル」、「子をヤル」のようなヤルの用法や、例(110)「スコップをどこかにヤル」のようなヤルの用法は、複合的な拡張と捉えられることである。具体的に言えば、「娘をヤル」タイプはⅠとⅡの複合であり、「スコップをどこかにヤル」タイプはⅰとⅱの複合である。それは、「娘をヤル」タイプの意味は、「嫁に行かせる」という意味ではⅡに近いけれども、「大学に行かせる·靴屋の小僧に行かせる」のような、行為目的節からの拡張はたいていある種の修行のような意味であり、修行であるからこそ、身の所属関係には大きな変化はないのに対して、「娘をヤル」タイプはそれとは異なり、ある意味では完全に所属関係、或いは極端に言えば所有関係までも変化する意味要素を有していることを考えれば、むしろⅠに近いと見るのが妥当であるからである。一方、定着した用法として既にある種の慣用句的な言い方になっているため、「*娘を買ってやる」のように、補助動詞用法への拡張には生産性がないため、Ⅱに近い一面もある。両方を合わせて考えれば、ⅠとⅡの複合と捉えるのが妥当であろう。

一方、「スコップをどこかにヤル」タイプは、Ⅱの「お使いに行かせる」の基本義として人間を対象とするが、そこから対象の成分が拡張すればⅰになり、行為目的から拡張すればⅱになると捉えられる。そこで、「スコップをどこかにヤル」タイプの場合は、対象は「スコップ」のようなものにまで拡張が生じ、そして「モノをどこかに移動させる」という、行為の目的節にも拡張が生じるというⅰとⅱの複合型であるとすることができる。

3.3.好ましいモノから「恩恵性の萌芽」へ

以上、3.1と3.2で「クレル·ヤル·モラウ」の本動詞の通時的用法から、共時的用法へと、その構文に現れる「モノ」の意味的特徴を中心に考察してきた。その結果、通時的用法から共時的用法へと、史的変遷に伴って、両者に意味変化や拡張関係が発生する中で、それぞれが相つながっていることを見てきた。

一方、3.2のデータ調査では、意味·用法の上から、授受対象物のモノをA~Hの八類に類分し、同じ内容のモノでも意味·用法によって、異なる種類に類分される場合があることを提示した。また、A、Bが意味的につながり、DとEもある意味では意味的類縁性を有し、GとHも意味用法上密接に関係していることを示した。

その結果、データが示すように、社会的通念から見て、A~Fの類に属するものは、基本的にいずれも必要なモノ、好ましいものであることが判明した。一方、必ずしも必要とされないモノ、別段望ましいとは思われないモノをGとH類にした。言い方を変えれば、この類分はもともとプラス的意味特徴のモノをA~Fの類に収めるデータ整理の仕方であると言うこともできる。この意味から、むしろF類までのデータより、G、H類のデータの意味特徴のほうが重要であり、その恩恵性に関する傾向性分析、ないし認定がより大事であると言うことができる。

G、H類のデータについては、3.2で分析したように、いずれも慣用句的な用法、ないしは歴史的用法の残存であった。ヤルの多義性分析で見たように、これらの用法は比較的定着しているため、クレルの擬古的用法の外には、補助動詞用法への拡張がほとんど見られないのが大きな特徴である。G、H類の中で大半のデータ量を占めている用法は、ある意味ではモノのやりとりとも関係する「娘をヤル·クレル」、「嫁をモラウ」であり、これをモノに喩えるならば、めでたいモノであることは言うまでもない。

以上見てきたように、通時的用法、共時的用法を合わせて見れば、全体のデータの中で、例(117)の揶揄のケース、慣用句的用法、歴史的用法の残存の少数の例を除けば、本動詞構文に現れる授受対象物の「モノ」は基本的に好ましいモノ、必要なモノ、そしてありがたいモノという意味特徴を有する表現例が圧倒的に多いと言うことができる。この事実は益岡(2001)が指摘している「恩恵性の萌芽」の考えと一致し、後の補助動詞構文への拡張にも大きな影響を与える要素となると見ることができる。

このような結果はデータ調査を通して得られた結論であるが、何故にこのように、好ましいモノ、必要とするモノ、ありがたいモノに一方的に偏るのであろうか。その原因について、従来の研究を見ても、本動詞構文の恩恵性、特に構文に現れる「モノ」の意味特徴に関してはほとんど言及されていない。ただ、古川(1995、1996a、1996b)には、史的用法の中で、「クレル·ヤル·モラウ」のいずれも、モノのやりとりに使われていた当初から、与え手と受け手に待遇上の差、即ち身分上に差が存在していたという指摘が見られる。このことは「クレル·ヤル·モラウ」の3系列体系が、3語形式だけでなく、待遇形式をも含んだ7語体系へと変化した大きな要因でもあったと見ることができる。また、もう一方では、まさに例(93)、(94)に示されているインド社会のモノのやり取りのシステムのように、モノが「もてる者」から「もたざる者」へと流動するように、待遇上の差も「モノ」の意味特徴に何らかの影響を及ぼしていることが推測される。 sD2d0RiGulDgd7VJGbQNTq1VYZ8XNv0SKmmj6ak4vc6BX4rlpXVnso26QhBLipOm

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